小声に囁《ささや》く。「さあ、不思議だね。」「林務官室!」誰かが小声で言った。「ああ、そうかも知れないね。」――この家を辞してまた橋を渡って昇降常なき路を辿って行く。樹は次第に大きくなり、同じ栂、樅の類でも上の方に比べると勢好く生長している。谿はあくまで深い、峰もあくまで高く、如何に見上げても果しがない。枯れて倒れて朽ちた樹が同じく縦横に横わっている。はじめの間は日の光が木立の間から洩れて青白く斑に射していたが、雲行が怪しくなったと思うと、林の中が暗くなって山がごうと鳴り出した。ざわざわざわざわと草が揺《ゆら》いで、木という木は枝が打合う。如何にも気味が悪い、と思っていると、そのざわめきの中からぬっと何者かが姿を現わした。見ると二つの大きな人影だ、そして自分らの方へ向ってずんずんやって来る。近寄って見ると、黒い林務官の制服を付けた四十位の男だ。細い径をすれ違おうとするので、
「ちょっと伺います、西洞までは未だ何里ありましょうか。」と丁寧《ていねい》に訊くと、ちょっと立留ったがそのまま棒立ちになって、一行には目もくれず、何処か遠くの方を見入って、聞耳でも立てているという風で、顔の色は蒼黒く、耳が不思議に大きい。「そう、五里位はあろうかな。」と吠えるような、木の洞の中から出て来るような声でいう。「五里?」驚いた。前の湯では四里と聞かされたのが、二里も来たかと思うのになお五里だという。林務官は言い捨てたままずんずん行ってしまう。後からは筒袖を着て、背板というのを背負った男が附いて行く、すぐ草の中へその後姿は没してしまった。――山や谷はこの時一層音高く鳴り出した。「妙だね。」と何人か言い出した。
「何だか変だね。」
「ほんとの人間かしら。」同じような感じは皆の胸を走った。皆は振返って今行った人たちの後を見ずには得《い》られなかった。
遂に雨となった。
深山の雨、幾千年となく斧の入った事のない深林の雨だ。始めは繋り合う木の葉に遮《さえ》ぎられているが、次第次第に烈しく落ちて、枝がぬれ、幹がぬれ、草がぬれ、自分らの纏《まと》っている糸径《いとだて》がぬれ、果ては衣服にも沁《し》み透《とお》る。仰いでも望んでも霧と雨、果ても知れず深い千古の谿にふり灑《そそ》ぐ雨の音、黙々として谿を巻き林を覆うて浮動している霧の姿、圧すべき人類もない深山の中で、人などは度外に置いて、霧と雨とが勝手に動いているのだ。
御嶽は信濃に向っては大きな山であるが、飛騨に面しては殆ど垂直のように思われる。その深い峰の中腹を伝って下りて行くのである。何処まで行けば人里に出られるのかというような気がする。時計を見るともう四時だ。「ねえ君。これは四里や五里の道じゃないぜ。」「何里だか知らないが疲れてしまった。」雨中を六里は確かに下った。身に着けている物は一切濡れてしまった、マッチさえ火が付かない、煙草を吸う術もない。もう外部に対する勇気はなくなった。不平を口にする事すら出来ない、殆んど何処へ行くという考えもなく、また別に深い苦痛も感じない。無意識のままで、すたすたすたすた足を運んで行くばかりである。「人」だという感念すら失っている。
路が漸く急に下って、林が尽きて草山に出た。局面の変化は多少の希望を繋がせるものである。遠くに瀬音が聞えだした、益田川の本流であろう。その瀬音を耳にすると一行は俄《にわか》に元気付けられた。雨もこの時小降りになって、鼠色の雲が峰から峰へ動いて行く。が、次第に夕暗が迫って来るのが感じられる。
ふと路下の方で馬の嘶《いなな》く声がする。透して見ると草山の麓に黒いものが動いている。
「オーイ」と声を掛けると、「オーイ」と下の方で応呼する。
「西洞まではもう近いかァー。」と訊《き》くと「二里位はあるぞォー。」と言って草刈る手をやめて上を仰いでいる。まだ二里の路! 自分らは殆んど其処《そこ》に立ちすくまずにはいられなかった。気が付くと其処でも此処《ここ》でもザクザクと草刈る音がする。見ると路の直ぐ上の所にも馬を引いて来ている者が二組も三組もいる。
「何処かこの辺で泊めてくれる所はないかね。」と聞くと、「西洞まで行かっしゃれ、それまではねえだ。」といって、不思議そうに私らの方を見送っている。仕方がない西洞まで歩《あ》るくことにする。
路の両側には四、五尺にも余る草が伸びている。霧は次第に濃く群がってその草原の上を爬《は》っている。其処此処に大小の小屋が眼に這入る、今の草刈どもの泊る小屋に違いない。
草原を過ぎて松林となった。路は平かに広くなって遂に益田川の岸に出た。なかなかの急流だ、その岸を伝って走る。四辺が次第に暗くなって来るにつれて、ただ走るより外に法はない、再び機械的に走り出した。殆んど夢中に歩いた。何里位か判明《わか》らないが、山が低くな
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