って地がやや開けて来たと思うとその山の下に火影が一つ見えた。懐しき火影、この時位人家を懐しく感じた事はない。疲れた足をひいて走った。途中で松火を点して来る女にあって漸く西洞へ来た事が判明った。その松火を売ってもらって教えられた宿屋へと着いた。大きな家の中央に炉が切ってあって、六尺もある大きな木が三、四本燃やしてある。宿の老爺は「ようこそ」と自分らを迎えてくれた。胡瓜《きゅうり》の汁の味でも濁川の湯のものなどには比べものにはならない。空腹を癒《いや》して臥床《ふしど》へはいると、疲労がすぎたのか眠られない。遠くない処で馬の鼻を鳴らす音も聞える。――ふと林務官の事が胸に浮んで来た、雨に逢って如何したろう、今夜濁川へ行ったろうか。彼のような林務官が殺されるだろうか、――なぞと思っている中にいつしか寝ってしまった。

 雨と霧とに巻かれて六里の間、人っ子一人登って来ない御嶽の裏山を飛騨の国に降りて、その晩は西洞という山の中の村へ泊った。疲かれ切っていたので、前後不覚に寝込んでしまった。ふと気がつくと、何処かで人の声がする、馬のひひんと嘶《いなな》くのが耳に這入《はい》る。それが何だか、暗い遠くの方から聞えて来るようで切角《せっかく》真暗い穴の中から這い出して来て、一生懸命で、その穴の縁に取りついて物音を聞いているが、ともすればその縋《すが》っている力を失って、またもとの穴の中へ落ち込んでしまいそうな気がする。
 話し声、馬の嘶きが一層はっきりして来た。室の中もうす明く見えだして、昨日の山路、今日の行くてのことが朧気《おぼろげ》ながら頭に浮んで来る。同行者も皆眼を覚ましているようだ。
 戸を開けて見た。
 爽《さわや》かな山国の朝の景色! 雲も霧も夜の間にすっかり晴れてしまって、松林の山がころび出たように眼の前に迫って、その裾を白い泡を立てて流が走って行く。
 青やかな草の香が鼻を襲う。見ると、直ぐ前の庭に刈って来たばかりの青草が山のように積んで地におろしてある。馬小舎に投げ込んで、馬に踏ませてから畑の敷肥に使うのだろう、馬は今までの重荷を急に卸《おろ》されて身軽になって、身体じゅうに波を打たせながら、何人も引かないのに、のそりのそり先きに立って歩いて行くと後から脊負子《しょいこ》を脊に、雪袴に草鞋穿《わらじば》きの若い男女がついて、家の角を廻って見えなくなった。
 庭へ下り、太い掛樋《かけひ》で山から引いて来てある水で顔を洗い、全身を拭うと、冷かな山気が肌に迫る。仰ぎ見ると、紺青の濃い空の色が、四方に立ち込んでいる山々の頂きに垂れかかって、朝日は流れの向う側の、松山の一面を赤く照らしている。
 今日は久振《ひさしぶ》りで市街のある所へ出られる。三、四日山の中ばかり歩いていたので、人家のある所が懐しい。今日は益田川の岸を下って高山の町へ這入るのだ。
 日の光は次第に広く、峰から森、狭い谿、深い渓流の上までも射し込んで、目に入るものは皆透き通る位に鮮《あざや》かだ。山の下の細径は谿の上を繞り繞って行く。
 西洞から三里ばかり下りると、浅井という村へ出た、信濃から来る県道|野麦街道《のむぎかいどう》は道幅が広く、電柱が遠く立ち並んでいる。久振りで知人に逢ったような気がした。
 見座という村を通って、郡上根という小さな峠を越す。眼界がやや開けて稲田のつづいているのが目に這入る、この稲田のつづく果てに高山の町が立っているのだろう。ゴチャゴチャと不規則に立ち塞《ふさ》がっている山が次第に四方へ片づいて、人の住むべき地歩を少しばかり譲っているような気がする。
 峠を越して四里高山の町の白壁が遠くに見え出して来た。寺の鐘楼《しょうろう》が高く家々の上に聳《そび》えている。町の響も聞えて来るような気がする。――私は少年の時分、私の家の隠居家に来ていた婆さんのことを思い出だした。信濃へはよく飛騨女が流れて這入って来た、飛騨女は皆色が白く、顔立ちが調《ととの》っている。私の郷里に近い町には廓《くるわ》があって、その廓へは飛騨女が多く来ていた。その婆さんもその廓へ来ていたのが、年老《としと》ってから私の家の隠居家へ雇われていたのであった。暇さえあれば高山の町の話をして聞かせた。照蓮寺の御堂、高山八幡の宮とか、私の胸へは婆さんから聞かせられた幼時の記憶が次第に浮んで来た――物語の国へでも這入って行くような思いがする。
 町の入口何処の田舎の町へ行って見てもそうだが、狭い道の両側の家の屋根は低く何処か黒いような影が伴っているようで、荷車、馬、子供、犬などが忙しそうにしているが、妙に寂しい、そして一種の懐しい旅情を覚えさせるものだ。
 高山の町は思ったよりも整然と調った這入る者の気を引しまらせるような、生気の充ち充ちた町である。真中に川が流れていて、その川に沿って
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