賑《にぎや》かな通りが縦横に出来ている。飛騨には大きな鉱山がいくつもあって、その鉱山の関係者が皆東京から来るので、高山の町はなかなか裕福だと聞かされた。何処を通って見ても充実した感じを覚えさせる。
 夜になって雨が降出した。雨の中を傘をさして町を見に行く、廿間もある間口の大きな家が両側にならんでいる町を通る。大通りを横切っていくつかの横町がある。皆賑かに人が通っている。川の岸まで出て見ると、水が一ぱい溢れて流れている。橋の際に柳が立ち並んで、夜の雨で茫《ぼう》っとしている。岸の家々の軒燈籠が水にちらちら写っている。橋の上を若い男の元気の好い声が通って行く、橋の向うには柳のこんもりと茂った中から、ちらちら燈火が見える。その柳の一廓はこの町の廓だ。
 総《す》べてが賑かだ、「小京都」という名前にそむかないと思った。
 書店へ寄ると、土地の絵はがきが出ている。その中に乗鞍岳の全景があった。私はそれを買って帰った。
 群巒《ぐんらん》重々として幾多起伏している上を圧して、雪色の斑《まだら》な乗鞍の連峰が長くわたっている。初秋の空らしい、細い雲がその頂の上を斜めに幾条も走っている。如何にも悠然とした山の姿だ。飽《あ》かず眺め入らずにはいられない。
 信濃高原の西方を繞る山脈の奥深く、幾重かさなっている峰々の間から、四時雪の姿を見せている山はこれだ。入日が没した後にうす紫の色に包まれ、遠い微かな思いをさせながら夜雲の底に沈んで行く山もこれだ。中央信濃の少年が幼時から西方を指して、第一にその名を教えられる山はこの山だ。
 今見る図はその乗鞍の後姿だ、母親の懐に抱かれて、
[#ここから3字下げ]
坊やのお乳母は何処行った。
     あの山越えて里へ行った……
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と夕暮ごとに唄うのを聞かせられた、その山の後方へ廻って来たのだ、不思議な国へ来たような気がする。
 その夜は山中の旅行に餓《う》えていた美味、川魚のフライ、刺身、鯉こく、新鮮な野菜、美しい林檎《りんご》、芳烈な酒、殆んど尽くる所を知らず四人して貪った。
 翌日はまた霧雨が降っていたが、予定通り出発した。出る匆々《そうそう》草鞋を泥に踏み込んで、高山の町を出た。
 雨は降ったり止んだり、折々日がぱっと照り出すかと思うと、また急に雲が重く重って来たりする。道は少しずつ爪先き上りになって、東北の方角を指して、また山の中へ向うのである。四方を見渡しても小さな山が一面眼前を埋めていて、眺望がさらに開けない、せせこましい感じをするばかりである。
 一里半ばかり行くと坊方という山村がある。其処《そこ》から蒲田の温泉と上高地の温泉へ行く道とがあるが、それへは行かず、旗鉾を通って平湯へ行こうというのであった。五里行くとその旗鉾という村へ出た。山が漸次に深くなり、山道を荷を負うて通う牛が其処此処《そこここ》に群をなしている。道の両側の坂地をならして小さな麻畑がいくつも出来ている。此処までの道は、山も高くなく、ただありふれた山地の景色に過ぎない。
 旗鉾からは山は次第に深くなり、樅、栂、檜《ひのき》などの大木が茂って、路は泥深く、牛の足跡に水が溜っていて、羽虫が一面泥の上を飛んで、人が行くとぱっと舞い上る。道は細くうねうね林の下、谿の上を伝って上る。さあっ、さあっと水の音か、樹上を渡る風の音か、ちょっと判断のつかない響がして、鳥の声が妙に澄んで来る、道を行く者も自ずと黙ってしまう。
 雨は止んで、雲が次第にうすくなって来た。まだ行く先き三里の山路だ。
 熊笹が次第に深く茂って来た。少し先きまで降っていた雨が、笹の葉にたまっていて、脚絆までもびしょ濡れになる。見ると、行く手の藪の中にぬるでの葉がもう赤く染まって秋の景色をほのめかせている。
 一里、二里、熊笹の中を踏んで登る。樅の林が厚く茂って、いくら登っても果しがない。振り返って見ると、樅の樹間を透かして、山々の繞っている間に、稲の敷いている平地が処々に見える。
 夕日がきらきら雲間を洩れて射だした。うす青い、妙に澄んだ光が熊笹の上をすべる。樅の林がとぎれて少し明るくなるが、向うを見ると、まだ暗く厚く茂っている。その中に光が射し込んで縞を織っている。
 切り倒したのか、自ずと倒れたのか、古い大木が熊笹の中に横たわっている。その上を踏み越え踏み越え登る。峰から谿から雲が次第に分れて、光は乱射する。物象の変化が如何にも不思議を思わせる。
 ふと、行くての笹原の中で、何かうなる[#「うなる」に傍点]声がする。ぐう、ぐう、と断続して聞える。思わず立ち止った。「何だろう。」「何だろう?」と同じ問が四人の間に繰り返された。
 関《かま》わず進んで見ると何か笹原の中に横になっている。傍の大木が倒れたものの上には、脊負子が立て掛けてあって、衣服が丸
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