めて括しつけてある。それに、大きな刃広の鋸と、鉞《まさかり》が一丁、小さな瓢が一つ、括しつけてある。
「ああ人だ!」「人がいる。」と四人は木の上へ馳け上って見た。
老爺だ、六十ばかりの白髪頭《しらがあたま》の老爺が笹の中に長くなって顔を腑伏《うつぶ》せて眠っている。「オーイ、どうした、オーイ。」と声を挙げて呼んで見ると、「ウーム」といいながら身を起す。見ると真紅な顔をして「アー」と大欠呻《おおあくび》をしながら、目を擦《こす》っている。そして「ああ、好い気持で寝てしまったな。」と、両手を長く伸しながら一行の方を見て、「一体、お前様たちゃ、何処から来ただね。」
「何処からって、高山からさ、お前は一体|如何《どう》したんだ、そんな処に寝ていて、吃驚《びっくり》するじゃねえか。」
「なあに、一ぱい引《ひっ》かけて、その元気でやって来ただがね、あんまり好い気持だもんだで、つい寝ちまって……はア……。」
「でも、もう日が暮れるじゃないか、何処まで行くんだえ。」
「なあに、今夜は平湯までさ、明日は信州へ帰るんだ。」
「平湯までだって、まだ大分あるだろう。」
「なあに一里そこそこでさあ、へえこれから先きは一と走り下り一方でさあ。」
「じゃ一所に行こう、老爺さん。」
「ええ、行きますべえ、ああ、どっこいしょ、山で日を送ってりゃ安気《あんき》なもんだ、あさっで[#「あさっで」に傍点]は久し振りで嬶《かかあ》の顔でも見ますべえかなあ……」
「老爺さんは今まで何処にいたんだえ。」
「何《な》に飛騨の山の中にいたんでさあ、飛騨なんて小っぽけな国でね、これから信州へ帰るんでさあ。」
「信州の方が好いかね。」
「そりゃ、国柄が違いまさあ、昔から飛騨は下々国といって、『飛騨の高山乞食の出場所』って、歌にもあるじゃありましねえか。」
「大変な気焔だね、山の中で何をしていたんだい。」
「なあに、大勢で木を伐《き》っていたんでさあ。」
「面白いだろうね。」
「若い奴ばかり集っておりますからね、ははははは。」
「寂しかないかね。」
「寂しいたって、お前様、仕方がねえ、せっせと稼じゃ、こうやって時々家へ帰るんでさあ。」
「他の者は?」
「他の奴らは未だ残っております、可愛《かわい》そうに、若い奴らだから女を恋しがって、ね、それでも、俺のいう事を聞いて黙って働いていまさあ……。」
老爺は酒臭い息を吐きながら、脊負子を脊負って、大声で話し掛けながらやって来る。
入日は峰の雲に隠れてしまった。径は登り尽くして平らになった。樅の木が立枯れして、白く骸骨のようになって立っている。もう一度振返って見た。飛騨にはもう雲が落ちて、今日通って来た辺などの見当は少しもつかない。この山を向うへ下りると、またいつこの飛騨の地などへ来れるか分らんと思うと、懐かしいような気がして暫く立っていて見た。
下り坂の端に立った。ぱっと一道の虹が深谷の中から天に向って沖している。深い深い何丈とも知れない谿だ、ざあざあと水音らしい響が聞えて来る。谿底はもう薄暗い。谷を隔てて黒い岩質の山が微かな夕の光を反射させている。
「ああごしてえ[#「ごしてえ」に傍点]、まあ先へ行っしゃろ、平湯はこの谷の底だで。」老夫は岩角へ腰を卸《おろ》した。
私たちは草鞋の紐をしめ直して、殆んど垂直とも思われる礫だらけの谷の道を馳け下りた。一度足を動かし出したらば、止めようがない。腹をでくでくさせながら、息もつかずに走り下りた。
藪道をくぐり抜けて渓流の岸へ下りた。ただ一面の短い草の原、今まで来た道は何処へやら、さっぱり判然《わか》らなくなってしまった。が仕方がない、川を伝って下りて行った。何だか擂鉢《すりばち》の底でもめぐっているような思いがする。斯様な所を通って行って果して温泉なぞに出られるだろうか、と疑いたくなる。ちょっと立止って耳を澄すと、川の音と、うすくかかって来た霧の中をキュッ、キュッと鳴いて飛んでいる蝙蝠とがあるばかりだ。空を仰いでも、もう虹の色はいつしか消えてしまって、薄ぼんやりしているばかりだ。後から来る老爺を待とうかと言い出したが、まあ関わず行けというので進んで行った。
川が折れ曲ったかと思うと、山陰に家が黒く見え出して来た。燈火がちらちらする。湯の香もする。人の声もする。ほっと息をついた。足も自ら急がれた。
湯煙りが上り、靄が白くゆらゆら立ちのぼる中に百六十軒の人家が並んでいる、賑かに歌をうたう声が聞えている。実際思い掛けない所を見付けたような気がした。その中の大きな家を一軒見付けて泊った。湯は炭酸泉だ、外湯で、大きな共同の浴場が出来ていて、皆下駄を穿《は》いてその湯に這入りに行く。
翌朝目がさめて戸外へ出て見ると、雲が晴れ上って、西の方に当って連峰の上、槍ヶ岳の尖頂は雲を突裂いて立ってい
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