らとなく水中に沈んでゐるその巨樹を少しづつ切り上げて、その寺の境内にはそれらの木で一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の堂を建てゝあるとの事である。
 諏訪湖には信玄の石棺が沈められてゐるといふ傳説が一時傳つてゐた。それは明かな虚構であるにしても、鐘が淵に巨鐘の沈んでゐることは今でも信じられてゐる。何處の湖水にでも、何か水中に祕密を藏してゐない事はない。迷信の作り出して來る傳説であらうとも、史實の傳へる遺跡であらうとも、水は靜かな表面を見せて、少しもその祕密を現はさうとはしない。
 冬季には、この湖水も諏訪湖と同じく凍りついて、氷上を渡ることが出來る。厚いときは二三尺にも餘ると、若者が話してくれた。
 湖の東の方にあつて、逃げゆく霧の中から斑尾山《まだらをやま》が眞正面に見え出して來た。信越の國境を形づくる山の一つである。振り返つて見ると、妙高、黒姫、飯繩《いひづな》の三山が、これも霧の中から徐に姿を見せだした。
 私は船をかへして岸の方へ向ふ事にした。信越の境に跨るこの三山の雄大な景色を、ぢつと眺めて居たくなつたからである。上へ/\と逃げて行く霧は、山の中腹から頂にかけて、次第に空へ
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