れたその聲は、祕めた歡樂をうたふやうに、低い平原國を追はれたものが、山の中へ來て思ふまゝの自由を享樂してゐるやうに、何人をも憚らず唄つてゐる。
 霧の薄れて行く林の中から、蝉の聲がまた聞え出した。迷つてゐる者に道を教へるやうに、日中が近寄つて來ることを告げるやうに、身をゆすぶり、木をゆすぶり、林をゆすぶつて、立ちこめる霧を追ひやるやうに鳴き出した。
 蘆のこんもり群立つてゐる姿が處々に見えだした。水溜が次第に近寄つて來たことを思はせる。その中からけたたましく行々子《よしきり》の聲が騷ぎ立てる。何ものかの警告を與へるやうに、今まで默つてゐたものが不意に目を醒ましたやうに。
 今までは默々として動き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた霧が、天地を我もの顏に領してゐたのだが、今度は一つ一つ聲を立てゝ、飛び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るものの生命が目を醒まして來た。
 先きの方に、山の裾が見え出して、その裾をめぐつて、曇つた鏡の面《おもて》のやうに、水面がぼんやり霧の中から浮んで見える。山々の間に入り込んで、彼處にも此處にも、光の無い水が見える。けれど水の上は餘所よ
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