いものであつた。自分の尊敬してゐる友人の前へ、有らゆる自分の姿を、深く心に祕めてゐる考へを、安心して打開けることの出來るやうに、私は山に向つてゐるとき、常は忘られてゐる心の底の流れが、自由に流れ出すのを感ずる。自分の持つてゐるものの總てが殘らず響を立てゝ表面へ現はれるのを覺える。これが私の全體の生活でなくて何であらう。私の全體の生命でなくて何であらう。
深い悦びが、生の悦びが體躯《からだ》全體に漲つて來る。私の體躯の血潮が有らゆる力を盡して、順潮にめぐつてゐる。それが狂ふやうに躍るのではなく、今にも血を吐きはしまいかと思はれるやうに心臟が鼓動するのではなく、脈搏は大樣に、力強く波打つて、身體全體がほてつて來る。心の活動が寸分の隙もなく充實して來る。何故喧騷の中で、群集の中で、臆病な人間が、この自然の前へ來た時、十分の活力を得られるであらうか。何故、私達人間は友人の前に居る時だけ、戀人と向ひ合つて居る時だけ、樂しい自由な、流れるやうな心持が味はれるのであらう。
私がそんな事を思つてゐる間に、いつか船は蘆の生えてゐる淺瀬の上へ、ばさ/\入つて來た。と眼の前に蘆の葉の薄緑が一連《ひとつら
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