だ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ彼方《あつち》へ行つちやさう好い旅舎《やどや》なんかねえさ、泊るぐれえなことは出来るけえど」
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
藻草と海苔《のり》粗朶《そだ》とが舟脚にからむ。横浪が高く右の方から打かゝつて来る。弁天島は黒い松の林に覆はれて湖水と海との間に浮んでゐる。昨夜遅く舞坂の停車場から東海道の松並木の間を、浜松から島へ帰る人を先きにして色々な話を聞きながら通つて来た。その男は宿屋の身内の者だとか言つて、雙方に便宜なやうな話をして聞かせた。道が曲つて、ぱつと眼の前へ浜名湖の夜景色《やけい》が浮び出た時は、何処か遠い国へでも連れて来られたやうな気がした。漁火の点々として浮んでゐるのと、闇の中に咽ぶやうに寄る波と、橋の向ふに薄白く見えてゐる旅館の壁と、瑞西《スイツル》の湖畔へでも連れ出されたや
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