紺青の海とを劃して、思ふまゝに伸びやかに走つてゐる。広くはあれど、小さい無数の変化を見せる水の面は、複雑果しない楽の音を聞くやうに、いかにも豊かな温かい感じを与へる。深いこの碧の水に抱かれて、何処へなりとも身を運んで行つて貰ひたい。波と共に踊りまはり、遊び戯れて、飽くことなき自在な生活を送りたい。
 私は、山頂を劃して来る、あのなだらかな、而も鋭く澄んだ一線に対するときは、身が引き締まり、乱れた心に統一を与へ、取り留めなき自分をはつきり引とゞめて、広い宇宙に自分の立つてゐる有り場を確かに見せて呉れて尊い悦ばしさを味ふ事が出来た。
 けれど、海へ向へば、平かな豊かなるこの海に向へば懐しさが湧いて、躍る胸を押へることが出来ない。固くいぢけて乾からびたやうな形骸の生活、それを脱して飽まで伸びやかな流れ溢れる生活を与へられる。孤疑し逡巡し、骸骨のやうな顔をして互に睨み合つて居るやうな自分の生活から、せめて少しの間でも脱れ出る事が出来る。疑へばこそ人も怪しい影に見える。影と影とが互に歯をむき出合つて、掴みかゝらんばかりに苦しい日頃の生活は、いまこの大きな流動して止まない海の面に対して立つ時に忘ら
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