れはまた尚だ木綿の黒紋付の羽織に垢づいた袷で、以前の通り堅くるしい態《なり》をしてゐた。
 由三は何がなし冷い手で胸を撫でられるやうな心地《こゝち》がした。
 綾さんには男の兄弟といふがなかツた。妹が両人あツて、次の妹はお兼と謂ツて、姉にも優ツて美しかツた。もう十六になツたといふ。其は近頃印刷局に通ツてゐるとのことであツたが、末ツ子のお芳といふのは、大した駄々ツ子で、九ツにもなツて尚だ母親の膝の上に乗ツて、萎びかゝツた乳をさぐッてゐるといふ風であツた。母親は氣の好い人で、開《あ》けひろげた胸を芳坊にいじらせながら、早口にクド/\と貧乏話を始めた。そして由三が家を探しに來たことをいふと、綾さんと兩人《ふたり》で、那處《あすこ》は何うの此處は何うと、恰で親族の者が引越して來るとでもいふやうな騒をする。父は一切沒交渉で、其の話が始まるとプイと立ツて縁側に出て、鶯に遣る餌を摺ツてゐた。
 結局綾さんが案内に立ツて、近所の空家《あきや》を探すことになツた。そして適當な家を目付けて、其を借りることになツたが、敷金家賃其の他一切の話合《はなしあひ》は都《すべ》て綾さんが取仕切《とりしき》ツて、由三は
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