はあツたが、色の白い髮の濃い、ふツくりした[#「ふツくりした」に傍点]顏立であツた。細い美しい眉も、さも温順《すなほ》に見えたが、鼻は希臘型《ギリシヤがた》とでもいふのか、形好く通ツて、花びらのやうな唇は紅く、顎《あご》は赤子の其のやうにくびれてゐた。眼はパツチリした二皮瞼《ふたかはめ》で、瞳は邪氣無《あどけな》い希望と悦《よろこび》とに輝いてゐるかと見られた。
 風早學士は妙に此の少女に心を引付けられた。で、其の飛出したやうな眼で、薄氣味の惡い位ヂロ/\少女の顏を見ながら、其の儘行き過ぎて了はうとして、ふと立停ツた。立停ると、慌《あわただ》しくポケットを探りながら、クルリ踵《きびす》を囘《かへ》して、ツカ/\と林檎を賣る少女の前に突ツ立ツた。そして、
「林檎を呉《くれ》ンか。」と聲を掛ける。
 少女は、紺のつツぽ[#「つツぽ」に傍点]の袖の中へ引ツ込めてゐた手を出しながら、「幾個ね」
 と艶《つや》ツ氣《け》なしに訊《き》く。
「幾個ツて……」を風早學士は、鳥渡《ちよつと》まごツき[#「まごツき」に傍点]ながら、「一ツで可いんだ。」
「一ツかね。」とケロリとした顏で、學士の顏を瞶《みまも》りながら、「大きいのが可いかね、それとも小さいのになさるだかね。」
「大きいのを呉れ……一番大きなのを一ツ。」
「お擇《よ》ンなツたが可い!」
 と投出すやうに謂つて、莞爾《にツこり》する。片頬に笑靨《ゑくぼ》が出來る。
「ま、何《どれ》でも可いから好ささうなのを一ツ呉れ。」といふと、
「然うかね。」と少女は、林檎を見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、230−上段15]して、突如一つ握ツて、「此《こゝ》らが、ま、好いとこだね。」
「宜からう。」と頷《うなづ》いて、風早學士は林檎を一ツ購《か》ツた。そして彼は、此の少女に依ツて、甚だ強く外部からの刺戟を受けたのであツた。
 此の朝からして、その橋際は風早に取ツて無意味な處では無くなツて了ツた。そして此の朝を始めとして、風早は毎日此の少女の林檎を購ツた。何故か其數は一ツと定ツてゐた。それからといふものは、風早は毎朝其の橋を渡りかけると、柔《やはらか》な微笑が頬に上《のぼ》る。氣も心も急に浮々して、流の響にも鳥の聲にも何か意味があるやうにも感じられ、其の冷い心にも不思議に暖い呼吸が通ふかと思はれるのであツた。此くして以後三月ばかりの間、天氣さへ好かツたならば、風早は其處に林檎を賣る少女の顏を見たのであツた。唯顏を見て心を躁《さわ》がせてゐたばかりで無い、何時か口を利《き》き合ふことになツて、風早は其の少女が母と兩人《ふたり》で市の場末に住ツてゐる不幸な娘であることも知ツた。
 處が一週間ばかり前から、不圖此の少女の姿が橋際に見えなくなツた。風早學士の失望は一と通で無い、また舊《もと》の沈鬱な人となツて、而も其の心は人知れぬ悲痛に惱まされてゐた。彼は其の惱を以て祖先の遺傅から來た熱病の一種と考へ、自ら意志を強くして其のバチルスを殲滅《せんめつ》しようと勤めて而して※[#足扁に「宛」、第3水準1−92−36、230−中段12]《あが》いてゐた。

   *     *     *

 解剖室に入るべき時間は疾《と》うに來たのであるが、風早學士は何か調べることがあツて、少時《しばらく》職員室にまご[#「まご」に傍点]/\してゐた。軈《やが》て急に思付いたやうに、手ばしこく解剖衣を着て、そゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]と職員室を出て廣ツ場を横ぎツて解剖室に向ツた。其の姿を見ると、待構へてゐた學生等は、また更に響動《どよめ》き立ツて、わい/\謂《い》ひながら風早學士の後に從《つ》いて行く。
 雪は霽《あが》ツて、灰色の空は雲切がして、冷《ひやゝか》な日光が薄ツすりと射す。北國の雪解の時分と來たら、全《すべ》て眼に入るものに、恰《まる》で永年牢屋にぶち込まれた囚人が、急に放たれて自由の體となツたといふ趣が見える。で其處らの物象が、荒涼といふよりは、索寞として、索寞といふよりは、凄然《せいぜん》として、其處に一種人を壓付《おしつ》けるやうな陰鬱な威力があツた。暗澹たる冬から脱却した自然は、例へば慘憺たる鬪に打勝ツた戰後の軍勢の其にも似てゐる。其處に何んの榮《はえ》も無く、全てが破壞されて、そして放ツたらかされて、そして取ツ散かされて亂脈になツて、尚《ま》だ何んにも片付けられてゐない。見るから無慘な落寞たる物情である。早い話が、雪といふ水蒸氣の變換は、森羅萬象《ものといふもの》を全く眞ツ白に引ツ包むで了ツてこそ美觀もあるけれども、これが山脈や屋根に斑《まだら》になツてゐたり、物の陰や家の背後《うしろ》に繃帶《ほうたい》をしたやうに殘ツてゐては、何んだか醜い婦《をんな》の白粉《おしろい》が剥げたやうな心地《こゝち》もする。要するに雪解の時分の北國の自然は都《すべ》て繃帶されてゐるのだ。丁ど戰後の軍勢に負傷者や廢卒や戰死者があるやうに、雪解の自然にも其がある……柵が倒れてゐたり垣が破れてゐたり、樹の枝が裂けてゐたり幹が折れて倒れてゐたり、または煙突が崩れてゐたり小屋や小さな物置が壓潰《おしつぶ》されてゐたり、そして木立や林が骸骨のやうになツて默々としてゐる影を見ては、つい戰場に於ける倒れた兵士の骸《むくろ》を聯想する。其の林や木立は、冬の暴風雨《あらし》の夜、終夜《よすがら》唸《うな》り通し悲鳴を擧げ通して其の死滅の影となツたのだ……雖然《けれども》鬪は終ツた。永劫《えいごふ》の力は、これから勢力を囘復するばかりだ。で蕭然たるうちに物皆|萠《も》ゆる生氣は地殼に鬱勃としてゐる。
 風早學士は、其の薄暗い物象と陰影とを※[#眼偏に「句」、第4水準2−81−91、230−下段26]《みまは》して、一種耐へ難い悲哀の感に打たれた……彼自身にも何んの所故《わけ》か、因《わけ》が解らなかツたけれども、其の感觸は深刻に彼の胸を※[#「削」の偏は肖でなく炎、第3水準1−14−64、230−下段29]《けづ》る。彼は其の或る空想の花に憧れて、滅多《めつた》無性《むしやう》と其の影を追※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、231−上段2]してゐた。而も彼の心は淋しい! そして眼に映る物の全てに意味があツて、疑が出て來て、氣が悶々してならぬ。
「俺は生れ變ツたのぢやないか。」と彼は頭を振ツて考へた。
「一體俺は何んだえ?」といふ疑も出て來る……而《す》ると熱《ほて》りきツてゐた頭が急に冷めたやうな心地もする。で、吃驚《びつくり》したやうに、きよときよとして其處らを見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、231−上段10]しながら、何か不意に一大事件にでも出會《でくは》したやうに狼狽《うろた》へる。妄《やたら》と氣が燥《いら》ツき出す。
「何んだ? 何んだツて、俺は此樣なことを考へる……人間は智識の他に何も意味も無い價値《ねうち》も無い動物ぢやないか。人間の生活は、全く苦惱で而も意味は空ツぽだけれども、智識は其の空ツぽを充《みた》して、そして種々《さまざま》の繋縛をぶち斷《き》ツて呉れるのだ。で俺は出來るだけ智識を求め、馬より少し怜悧な人間にならうと思ツて、其を唯一の快樂ともし、目的ともしてゐたのだが。」と考へて來て、忌々《いま/\》しさうに地鞴《ぢたゝら》を踏みながら、
「何うして?……え、何うして林檎が喰ひたいのだ。そりや林檎は、血の糧《かて》だ! 血の糧には違ないが、其の血が脈管に流動するといふことが、軈《やが》て人間の苦惱を増進させるのぢやないか。」
 氣が付くと彼は何時か、解剖室の入口から少し外れて傍の方へ――其のまゝ眞ツ直に進むだら、楢《なら》や櫟《くぬぎ》の雜木林へ入ツて了ふ方向に、フラ/\と、恰《まる》で氣拔でもした人のやうに歩いて行く。一平は、解剖室の窓から、妙な顏を突出して、不思議さうに風早學士の樣子を眺めてゐた。學生等は、大概其樣な事には頓着しないで、ヅン/\解剖室へ入ツて行く。
 人が足を踏入れぬところは、何處でも雪の消えるのが後れるものだ。風早學士は、何時の間にか其の雪の薄ツすりと消殘ツてゐる箇所《ところ》まで來て了ツた。管《かま》はず踏込むで、踏躙《ふみにじ》ると、ザクザク寂《しづか》な音がする……彼は、ふと其の音に耳を澄まして傾聽した。ふいと風が吹立ツて、林は怯《おび》えたやうに、ザワ/\と慄《ふる》へる……東風《こち》とは謂へ、尚《ま》だ雪を嘗《な》めて來るのであるから、冷《ひや》ツこい手で引ツぱたくやうに風早の頬に打突《ぶツか》る。風早學士は、覺えず首を縮《ちぢ》めて、我に返ツた。慌てて後へ引返さうとして、勢込むで踵《きびす》を囘《かへ》す……かと思ふと、何物かに嚇《おどか》されたやうに、些《ちよツ》と飛上ツて、慌てて傍へ飛退《とびの》き、そして振返ツた。
 其處には斑猫《ぶちねこ》の死體が轉ツてゐたのだ。眼を剥《む》き、足を踏張り齒を露出《むきだ》してゐたが、もう毛も皮もべと[#「べと」に傍点]/\になツて、半ば腐りかけてゐた。去年から雪の下になツてゐたものらしく、首には藁繩が絡《から》みつけてあツた。
 一目見ただけで、風早學士は竦然《ぞツ》とした。そして考へた。
「此の猫だツて、誰かに可愛がられて、鼠を踏んまへて唸《うな》ツたことがあるのだ……ふゝゝゝ。」と無意味に、冷《ひやゝか》に笑ツて、
「ところが、ふとした拍子《ひやうし》で此樣な死態《しにざま》をするやうになツた……そりや偶然さ。いや、屹度《きつと》偶然だツたらう。何んでも生物の消長は、偶然に支配されて、種々《さまざま》の運命を作ツてゐるのだ……俺が此樣な妙なことを考へてゐるのも偶然なら、此樣な事を考へるやうになツた機會も偶然だ。※[#「人」偏に「尚」、第3水準1−14−30、231−下段7]《もし》俺が此處で頓死したとしても、其も偶然だし!……」
 と、考へて來て、ふと解剖室の方を見る。破れた硝子《ガラス》に冷い日光《ひかげ》が射して、硝子は銅のやうな鈍い光を放ツてゐた。一平は尚だ窓から顏を出して、風早學士の方を見詰めて皮肉な微笑を漂《うか》べてゐた。
 風早は其と見て、「一平か。いや慘忍な奴さ。金さへ呉れたら自分の嬶《かゝあ》を解剖する世話でもするだらう。だが學術界に取ツては、彼樣な人物も必要さ。一箇人としては、無意識な、充《つま》らん動物だけれども、爲《す》る仕事は立派だ……少くとも、此の學校に取ツては無くてはならん人物だ。」
 此《か》くて彼は解剖室へ入ツた。
 解剖室の空氣の冷い! 解剖臺==[#2文字分のつながった2重線]其は角《かど》の丸い長方形の大きな茶盆のやうな形をして、ツル/\した。顏の映るやうな黒の本塗《ほんぬり》で、高さは丁どテーブル位。解剖臺のテーブルの上には、アルコールの瓶だの石炭酸の瓶だの、ピンセットだの鋸《のこぎり》だの鋏《はさみ》だの刀《メス》だの、全て解剖に必要な器械や藥品が並べてある。解剖臺には、解剖される少女の屍體が尚だ白い布《きれ》を被《かぶ》せたまゝにしてあツた。學生等は解剖臺を繞《めぐ》ツて、立ツて、二人の助手は何彼《なにか》と準備をして了ツて、椅子に凭《もた》れて一と息してゐる。處へ風早學士がノソリと入ツて來た。
 彼は直《すぐ》に解剖臺の傍に立ツた。一平は、つツと立寄ツて白い布を除《と》る……天井の天窓《あかりまど》から直射する日光は、明《あきらか》に少女の屍體を照らす……ただ見る眞ツ白な肌だ! ふツくりとした乳、むツつりした肩や股《もゝ》、其は奈何《いか》に美しい肉付であツたらう。少女は一週間ばかり腹膜炎を病むで亡くなツたといふのであるから、左程衰弱もしてゐない。また肉も※[#「削」の偏は肖でなく炎、第3水準1−14−64、232−上段12]《こ》けてゐなかツた。濃い、綺麗な頭髮《かみ》は無雜作につくね[#「つくね」に傍点]てあツて、眼はひた[#「ひた」に傍点]と瞑《つぶ》れてゐる。瞼、生際《はえぎは》、鼻のまはり、所謂《いはゆる》死の色を呈して、少し
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三島 霜川 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング