蒼味がかツて、唇の色も褪《さ》めてはゐるが、美しい顏は淋しく眠ツてゐるかと思はれるやうだ。齒が少し露《あら》はれてゐるのが、妙に他《ひと》の心を刺すけれども、それとても悲哀や苦難の表徴ではない。兩足をも眞ツ直に、ずツと伸し、片手は半ば握ツて乳の上に片手は開いて下に落してゐた。※[#「人」偏に「尚」、第3水準1−14−30、232−上段21]《もし》も、ふいと此の屍體を見たならば、誰にしたツて、穩《おだやか》に、安《やすらか》に眠ツてゐるものとしか思はれぬ。
室内は、寂然《ひつそり》靜返ツてゐた。
風早學士は、此の屍體の顏を一目見ると直に、顏色を變へて、眼を※[#目偏に「爭」、第3水準1−88−85、232−上段26]《みは》り息を凝《こ》らし、口も利かなければ身動もせぬ。そして片手の指頭を屍體の腹部に置いたまゝ、宛然《さながら》に化石でもしたやうに突ツ立ツてゐた。此《か》くして幾分間。風は絶えず吹き込むで、硝子戸は恰《まる》で痙攣《けいれん》でも起したやうに、ガタ/\、ガタ/\鳴る……學士の手先は顫《をのゝ》き出した。軈《やが》て風早學士は、ぷいと解剖臺を離れて、たじ/\と後退《あとずさり》した。そして妄《やたら》と頭を押へて見て、また頭を振つて、ふら/\と其處らを歩※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、232−中段6]ツてゐた。……かと思ふと、突如《だしぬけ》に、
「僕は、何んだか頭の具合が惡くなツて來たですから……」
と謂捨《いひす》て、眞ツ蒼になツた顏で、一度ズラリ室内を見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、232−中段10]して、さツ/\と解剖室を出て行ツて了ツた。解剖臺に据ゑられた少女の屍體は林檎賣の娘の其《それ》であツた。助手や學生は呆氣《あつけ》に取られて、互に顏を見合はせながら、多分腦貧血でも起したのであらうと謂合ツてゐた。
(明治四十年三月「中央公論」)
底本:現代日本文學全集84「明治小説集」筑摩書房
1957(昭和32)年7月25日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:小林徹
校正:関延昌夫
1998年9月29日公開
2001年3月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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