《ストーブ》の方へ歩寄りながら、「近頃は例の、貴方の血の糧《かて》だとか有仰《おツしや》つた林檎《りんご》を喫《あが》らんやうですな。」
「いや、近頃何時も購《か》ふ林檎賣が出て居らんから、それで中止さ。」
「だが、林檎は方々の店で賣ツてゐるぢやありませんか。」と皮肉にいふ。
「そりや賣ツとるがね。」と風早學士は、淋しげに微笑して、
「ま、喰はんでも可いから……加之《それに》立停ツて何か購ふといふのが、夫《そ》の鳥渡面倒なものだからね。」
 と無口な學士にしては、滅多と無い叮嚀な説明をして、ガチヤン、肉叉《フオーク》と刀《ナイフ》を皿の上に投出し、カナキンの手巾《ハンケチ》で慌《あわただ》しく口の周《まはり》を拭くのであツた。
「然うですか、甚だ簡單な理由なんで。」と若い職員は擽《こそぐ》るやうにいふ。
「然うさ、都《すべ》て人間といふものは然うしたものさ。眞《ほ》ンの小《ちい》ツぽけな理由からして素敵と大きな事件を惹起《ひきおこ》すね。例へば堂々たる帝國の議會ですら、僅か二三千萬の金の問題で、大きな子供が大勢《おほぜい》でワイ/\大騷を行《や》るぢやないか。」
 と細い聲で、靜に、冷笑的に謂ツて、チラと對手《あひて》の顏を見る。そしてぐい[#「ぐい」に傍点]と肩を聳《そびやか》す。これは彼が得意の時に屡《よ》く行る癖で。彼の傍には、人體の模造――と謂ツても、筋肉と動靜脈《どうじやうみやく》とを示《み》せる爲に出來た等身の模造が、大きな硝子の箱の中に入ツて、少し體を斜にせられて突ツ立ツてゐる。それで其の飛出した眼球が風早を睨付けてゐるやうに見える。此の眞ツ赤な人體の模造と駢《なら》んで、綺麗に眞ツ白に晒[#底本では「洒」の誤り]《さら》された骸骨が巧く直立不動の姿勢になツてゐる。そして正面の窓の上には、醫聖ヒポクラテスの畫像が掲《かゝ》げてあツた。其の畫像が、光線の具合で、妙に淋しく陰氣に見えて、恰《まる》で幽靈かと思はれる。天氣の故か、室は嫌《いや》に薄暗い。雪は、窓を掠《かす》めて、サラ/\、サラ/\と微《かすか》な音を立てる……辛うじて心で聞取れるやうな寂《しづか》な響であツた。
 風早學士は、此響を聞いても何んの興味を感ずるでも無ければ、詩情に動かされるといふことも無い。それこそ空々寂々《くう/\じやく/\》で、不圖《ふと》立起《たちあが》ツて、急に何か思出したやうに慌しく書棚を覗き※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、224−上段29]る。覗き※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、224−中段1]りながら、ポケットから金《ゴールド》の時計を出して見て、何か燥々《いら/\》するので、頻にクン/\鼻を鳴らしたり、指頭で髮の毛を掻※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、224−中段3]したり、または喉《のど》に痰《たん》でもひツ絡《から》むだやうに妄《やたら》と低い咳拂《せきばらひ》をしてゐた。風早學士は、此の醫學校の解剖學擔任の教授で、今日の屍體解剖の執刀者だ。年は四十に尚《ま》だニツ三ツ間があるといふことであるが、頭は既《も》う胡麻鹽になツて、顏も年の割にしなび[#「しなび」に傍点]てゐる。背はひよろり[#「ひよろり」に傍点]とした方で、馬鹿に脚《コンパス》が長い。何時も鼠とか薄い茶色の、而もスタイルの舊い古ぼけた外套《オバーコート》を着てゐるのと、何樣な場合にも頭を垂れてゐるのと、少し腰を跼《こご》めて歩くのが、學士の風采の特徴で、學生間には「蚊とんぼ」といふ渾名《あだな》が付けてある。さて風采のくすむだ[#「くすむだ」に傍点]學士が、態度も顏もくすむだ[#「くすむだ」に傍点]方で、何樣《いか》なる學士と懇意な者でも學士の笑聲を聞いた者はあるまい。と謂ツて學士は、何も謹嚴に構へて、所故《ことさら》に他《ひと》に白い齒を見せぬといふ意《つもり》では無いらしい。一體が榮《は》えぬ質《たち》なのだ。顏は蒼《あを》ツ白《ちろ》い方で、鼻は尋常だが、少し反《そ》ツ齒《ぱ》である。顏のうちで一番に他の注意を惹くのは眼で、學士の眼の大きいことと謂ツたら素敵だ! 加之《それに》其が近眼と來てゐる。妙に飛出した眼付で、或者は「蟹《かに》の眼」と謂ツてゐた。頭髮《かみ》は長く伸して、何時|櫛《くし》を入れたのか解らぬ位。其が額《ひたひ》におツ被《かぶ》さツてゐるから、恰で鳥の巣だ。
 學士の顏や風采も榮えぬが、其の爲《す》る事も榮えぬ。教壇に立ツても、調子こそ細いが、白墨《チヨーク》の粉だらけになツた手を上衣《コート》に擦《こす》り付けるやら、時間の過ぎたのも管《かま》はずに夢中で饒舌《しやべ》ツてゐるやら、講義は隨分熱心な方であるが、其の割には學生は受ぬ。尤も學士には、些《ちよツ》と高慢な點《とこ》があツて、少し面倒な
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