解剖室
三島霜川
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)所謂《いはゆる》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大分|破《こは》れ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#木へんに「解」、第3水準1−86−22、223−中段10]《かし》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゾロ/\
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これ、解剖學者に取ツては、一箇神聖なる物體である、今日解剖臺に据ゑられて、所謂《いはゆる》學術研究の材となる屍體は、美しい少女《をとめ》の夫《それ》であツた。此樣なことといふものは、妙に疾《はや》く夫から夫へとパツとするものだ、其《それ》と聞いて、此の解剖を見る級《クラス》の生徒の全《すべて》は、何んといふことは無く若い血を躍らせた。一ツは好奇心に誘《つ》られて、「美しい少女」といふことが強く彼等の心に響いたのだ。中には「萬歳」を叫ぶ剽輕者《へうきんもの》もあツて、大騷である。
軈《やが》て鈴《ベル》が鳴る、此の場合に於ける生徒等の耳は著《いちじる》しく鋭敏になツてゐた。で鈴の第一聲が鳴るか鳴らぬに、ガタ/\廊下を踏鳴らしながら、我先《われさき》にと解剖室へ駈付ける。寧《むし》ろ突進すると謂《い》ツた方が適當かも知れぬ。
解剖室は、校舍から離れた獨立の建物で、木造の西洋館である。栗色に塗られたペンキは剥《は》げて、窓の硝子《ガラス》も大分|破《こは》れ、ブリキ製の烟出《けむだし》も錆腐《さびくさ》ツて、見るから淋しい鈍い色彩の建物である。建物の後は、楡《にれ》やら楢《なら》やら栗やら、中に漆《うるし》の樹も混ツた雜木林で、これまた何んの芬《にほひ》も無ければ色彩も無い、恰《まる》で枯骨でも植駢《うゑなら》べたやうな粗林だ。此の解剖室と校舍との間は空地になツてゐて、ひよろり[#「ひよろり」に傍点]とした※[#木へんに「解」、第3水準1−86−22、223−中段10]《かし》の樹が七八本、彼方此方《あちこち》に淋しく立ツてゐるばかり、そして其の蔭に、または處々に、雪が薄汚なくなツて消殘ツてゐる。地は黝《くろ》ずんで、ふか/\して、ふとすると下萠《したもえ》の雜草の緑が鮮《あざやか》に眼に映る。此の空地を斜に横ぎツて、四十人に餘る生徒が、雁《がん》が列を亂したやうになツて、各自《てんでん》に土塊《つちくれ》を蹴上げながら蹴散らしながら飛んで行く。元氣の好い者は、ノートを高く振※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、223−中段18]して、宛態《さながら》に演習に部下でも指揮するやうな勢だ、てもなく解剖室へ吶喊《とつかん》である。何時《いつ》も自分で自分の脈を診《み》たり、胸をコツ/\叩いて見たりして、始終《しよツちゆう》人體の不健全を説いてゐる因循な醫學生としては、滅多と無い活溌々地の大活動と謂はなければなるまい。
其の騷のえらい[#「えらい」に傍点]のに、何事が起ツたのかと思ツたのであらう。丁《ちやう》ど先頭の第一人が、三段を一足飛《いツそくとび》に躍上ツて、入口の扉《ドアー》に手を掛けた時であツた。扉を反對の裡《うち》からぎいと啓《あ》けて、のツそり[#「のツそり」に傍点]入口に突ツ立ツた老爺《おやぢ》。學生はスカを喰《くら》ツて、前へ突ン※[#あしへんに「倍」のつくり、第3水準1−92−37、223−下段8]《のめ》ツたかと思ふと、頭突《づつき》に一ツ、老爺の胸のあたりをどんと突く。老爺は少し踉《よろめ》いたが、ウムと踏張ツたので、學生は更に彈《はね》ツ返されて、今度は横つ飛に、片足で、トン、トンとけし[#「けし」に傍点]飛ぶ……そして壁に打突《ぶツつか》ツて横さまに倒れた。
老爺は、其には眼も呉れない。入口に立塞《たちふさが》ツて、「お前さん達は、何をなさるんだ。」
と眼を剥《む》き出して喚《わめ》く。野太《のぶと》い聲である。
ガア/\息を喘《はず》ませながら、第二番目に續いた學生は、其の勢にギヤフンとなツて、眼をきよろつかせ[#「きよろつかせ」に傍点]、石段に片足を掛けたまゝ立往生《たちわうじやう》となる。此《か》う此の老爺に頑張られて了ツては、學生等は一歩も解剖室に踏入ることが出來ない。
老爺は、一平と謂ツて、解剖室專屬の小使であツた。名は小使だが、一平には特殊の技能と一種の特權があツて、其の解剖室で威張ることは憖《なまじ》ツかの助手を凌《しの》ぐ位だ……といふのは、解剖する屍體を解剖臺に載せるまでの一切の世話はいふまでも無い。解剖した屍體を舊《もと》の如く縫合はせる手際と謂ツたら眞個《まつたく》天稟《てんぴん》で、誰にも眞似の出來ぬ業である。既に解剖した屍體
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