、そして少し得意な説を吐く時には、屹度《きつと》「解るか。」と妙に他を馬鹿にしたやうに謂ツて、ずらり學生の顏を見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、224−下段6]したものだ。見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、224−下段7]して置いて、肩を搖《ゆす》ツて、「だが、此の位のことが解らんやうぢや、諸君の頭はノンセンスだ。」といふ。これが甚《ひど》く學生等の疳癪《かんしやく》に觸ツた。それで其の講義は尊重してゐたけれども、其の人物に對しては冷《ひや》ツこい眼で横目に掛けてゐるといふ風であツた。雖然《けれども》學士の篤學なことは、單に此の小ツぽけな醫學校内ばかりで無く、廣く醫學社會に知れ渡ツた事柄で、學士に少しのやま[#「やま」に傍点]氣と名聞《みやうもん》に齷齪《あくせく》するといふ風があツたならば、彼は疾《とう》に博士になツてゐたのだ。勿論學校からも、屡ゝ彼に博士論文を提出するやうに慫慂《しようよう》するのであツたけれども、學士は、「博士論文を出して誰に見て貰ふんだ。」といふやうなことを謂ツて、頭《てん》で取合はうとはしなかツた。學士は一元哲學の立場からして、極端な死滅論者で、專《もツぱ》ら新ダーウイン派の説を主張してゐる。で、一般は彼のことを解剖學者と謂ツてゐるけれども、學士自身は、所謂《いはゆる》解剖學は一種の術に屬すべきもので、學問では無い、自分は生物學を研究してゐるのであると謂ツてゐた。事實然うかも知れない。學士は、生物……と謂ツても、上は人間から下は蚯蚓《みゝず》の類まで、都《すべ》ての動物に多大の興味を持ツて研究してゐる。彼は單に科學的に實驗するばかりで無い。哲學的に思索もする。要するに彼は、形而下《けいじか》から、また形而上から自然の本體を探ツて、我々人類生存の意義を明《あきらか》にしようと勤めてゐるのであツた。されば風早學士は、自然哲學者として甚だ説が多い。また研鑚《けんさん》も深い。雖然《けれども》學士は尚《ま》だヘッケル氏の所謂「熟せる實」とならざる故を以て其のD蓄《うんちく》の斷片零碎をすら世に發表せぬ。彼は今のところ自ら高く持して默ツて考へてゐる人だ。そして其の爲ることでも言草でも、頭の冷ツこい人であることは爭はれぬ事實だ。
 彼は、解剖學者として、是迄殆ど百に近い屍體を解剖した。彼に解剖された人を一時に集めて見たら、立派な人生の縮圖が出來て、其處に小社會小國家が作られ、そして我々人間が祖先から傳へられた希望も欲望も習慣も煩悶も疑惑も歸趣も、そして運命をも、殆ど殘らず知悉《ちしつ》することが出來たかもしれぬ。解剖臺に据ゑられたんだからと謂ツて、人間が變ツて生れたのでも何んでも無い。矢張《やツぱり》我々が母の胎盤を離れた時のやうに、何か希望を持ツて、そして幾分か歡喜の間に賑《にぎやか》に生れたものだ。そこで其の最後は、矢張我々の先代が爲したやうに、何の意味も無く、また何等の滿足も無く、淋しい哀な悲劇であつた。彼等のうちには、戀に燃えて薄命に終ツた美人もあツたらう、また慾に渇《かわ》いて因業《いんごふ》な世渡《よわたり》をした老婆もあツたらう、それからまた尚《ま》だ赤子に乳房を啣《ふく》ませたことの無い少婦《をとめ》や胸に瞋恚《しんい》のほむらを燃やしながら斃《たふ》れた醜婦もあツたであらう。勿論小さな躓跌《つまづき》から大なる悲劇の主人公となツて行倒《ゆきだふれ》となツた事業家もあツたらうし、冷酷な世間から家を奪はれて放浪の身となツた氣の好《い》い老夫《おやぢ》もあツたらう。また活きてゐる間|溌溂《はつらつ》たる意氣に日毎酒を被《あふ》ツて喧嘩を賣※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、226−中段6]ツた元氣な勞働者もあツたらうし、空想的の功名に※[#足扁に「宛」、第3水準1−92−36、226−中段7]《あが》いて多大の希望と抱負とを持ツて空しく路傍に悲慘なる人間の末路を見せた青年もあツたであらう。更にまた一夜に百金を散じた昔の榮華を思出して飢《うゑ》と疾《やまひ》とに顫《をのゝ》きながら斃れた放蕩息子《のらむすこ》の果《はて》もあツたらうし、奉ずる主義の爲に社會から逐《お》はれて白い眼に世上を睨むでのたうち[#「のたうち」に傍点]※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、226−中段13]りながら憤死した志士もあツたであらう。中にはまた、堅い信仰を持ツて泯然《びんぜん》として解脱《げだつ》した宗教家もあツたらうし、不靈な犬ツころの如く生活力が盡きてポツクリ斃れた乞食もあツたらう。是等種々に異ツた性質と境遇と運命とを持ツた人間が、等しく「屍體」と名が變ツて生物の個體として解剖臺の上に据ゑられる、冷たくなツて、素ツ裸にされて。繰返していふが、此の人等は決して變ツた人ヤでも何んでも
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