無い。疑も無く我々と同じ種族で、甚だ小しやまくれた[#「しやまくれた」に傍点]、恐ろしく理屈ツぽい、妄《やたら》とえらがツてゐる人間で、巧く打當《ぶちあて》たら、何れも金モールの大禮服を着けて、馬を虐待して乘※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、226−中段25]すだけの資格があツたのだ。
併し風早學士は、些《ちつ》とも其樣なことに就いて考へなかつた。其が設《よし》や何樣な人であツたとしても、彼の心に何んの衝動も感覺も無かツた。勿論其の人の運命や身分や境遇や閲歴に就いて想像を旋《めぐ》らすといふやうなことも無い。また其が貴人の屍體であツたとしても、賤婦野人の屍體であツたとしても、彼は其處に黒犬《くろ》と斑犬《ぶち》との差別を付けようとしなかツた。要するに都《すべ》て人間の屍體で、都て彼に解剖されるのを最後の事蹟として存在から消滅するものと考へてゐた。で解剖される人に向ツて、格別|儚《はか》ないと思ふやうなことも無ければ、死の不幸を悲しむといふやうなことも無かツた。彼の人の死滅に對する感想は、木の葉の凋落《てうらく》する以上の意味は無かツたので。
そこで或る生ツ白い學生などが、風早學士に向ツて、此樣なことを訊ねたことがあると假定する。
「何んですな、解剖學者といふものは、恐ろしく人間を侮辱してゐるものですね。死者の尊嚴を蹂躙《じふりん》して、恰《まる》で化學者が藥品を分析するか、動物學者が蟲けらでも弄《いぢ》くるやうな眞似をするのですから。」
而《す》ると、風早學士は、冷《ひやゝか》に笑ツて、
「そりや人間靈長教や靈魂不滅説の感化から來た妄想さ。我々の祖先に依ツて廣く傳播《でんぱ》された宗教といふ迷信的の眞理では、我々人類が甚だえらい[#「えらい」に傍点]者のやうに説かれてゐるから、人間の靈性だとか、死者の尊嚴だとかいふことを考へて、解剖することが、解剖される個體に對して甚しい侮辱……だと、ま、思ふのだらうが、そりや思ツたことで、考へたことぢやないな。僕は、屍體に對して特別に尊敬も拂はぬが、また侮辱もし無い。何時も出來るだけ有用な材を得ようと考へて、出來るだけ親切に解剖する。其がまた刀を執《と》る者の義務だからね。併し其が假に死者に對する侮辱だとしよう。然らば君等に人間靈長の迷信を鼓吹したクリストは何《ど》うだえ……活きてゐる人に向ツて罪惡の子と謂ツてゐるぢやないか。罪惡の子とは、平ツたくいふと惡い奴だといふことだ……君等は此の大侮辱には歡喜して、解剖學者の侮辱でも無い侮辱に憤慨するのかえ。」
そこで片一方が躍氣となつて、
「そりやクリストは救世主ですから、其位の侮辱をする權利があるでせう。」といふと、
「其んなら解剖學者だツて、宇宙の研究者なんだから、其位の……、侮辱でも無い侮辱をする位の權利がある譯ぢやないか。」
此樣な事で、風早學士は何處までも人間の本體を説いて、解剖は決して死者に對する禮を缺くものでは無いと主張するのであツた。
されば風早學士が、解剖臺に据ゑられた屍體に對する態度と謂ツたら、冷々たるもので、其が肉付の好い若い婦《をんな》であツても、また皺だらけの老夫であツても、其樣な事には頓と頓着せぬ。彼の眼から見た其の屍體は、其の有脊椎動物で眞の四足類で、また眞の哺乳類で、そして眞の胎盤類である高等動物の形態に過ぎぬので。それで魚屋が俎《まないた》の上で鰹《かつを》や鯛《たひ》を切るやうに、彼は解剖臺の屍體に刀を下すのであツた。其の手際と謂ツたら、また見事なもので、法《かた》の如く臍《へそ》の上部に刀を下ろす。人間の血は、心臟の休息と共に凝血して了ふから、一滴の血も出ない。先づ腹部を切開して、それから胸腔に及んで、内臟の全くを露出する……膓でも、胃でも、腎臟でも、膀胱でも、肺でも、心臟でも、または動脈でも靜脈でも、筋《きん》でも骨でも、神經でも靭帶《じんたい》でも、巧に、てばしこく[#「てばしこく」に傍点]摘出しまた指示して、そして適宜に必要な説明を加へる。幾ら血が出ぬからと謂ツても、我々人間の内臟は、色でもまた形でも餘り氣味の好《い》いものでは無い……想像しても解る。人間の筋肉は、鮮麗な紅色を呈して美しい色彩のものではあるが、何故か我々人間に取ツて何等の美感を與へられる性質のもので無い。理窟は別として、人間の生活慾は、牛肉を快喫する動物性はあツても、人間の感情は、ただ一片の同胞の筋肉を見ても悚然《ぞツ》とする。況《ま》して其の筋肉を原形のまゝで、筋肉と混同《ごツちや》になツて、白い骨を見たり、動脈を見たり靜脈を見たり、また胃の腑の實體や膓のうじや[#「うじやうじや」に傍点]/\したところを見ては、奈何《いか》に氣強い者でも一種嫌惡の情に打たれずに居られない。されば始めて實驗解剖を見た者は、大概二三度
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