食を斷つといふことである。雖然《けれども》風早學士は、カラ平氣で、恰《まる》で子供がまゝ[#「まゝ」に傍点]事でもするやうに、臟器を弄《いぢく》ツたり摘出したりして、そして更に其の臟器を解剖して見せる。固《もと》より些《いさゝか》も無氣味と思ふ樣子もなければ、汚《きた》ないと思ふ樣子も無い。眞個《まツたく》驚くべき入神の妙技で、此くしてこそ自然の祕儀が會得《ゑとく》せられようといふものである。奈何《いか》に頭を熱《ほて》らせて靈魂の存在を説く人でも、其の状態を眼前《まのあたり》見せ付けられては、靈長教の分銅《ふんどう》が甚だ輕くなるこニを感得しなければなるまい。
 風早學士は、單に此の屍體解剖の術に長《た》けてゐるばかりで無い。比較解剖の必要、または其の他の必要から、生體解剖の術にも長けてゐる。併し國家は、法律を以て、人間の生體解剖は禁じてある。それで生體解剖の材料は、兎とか猫とか犬とか鷄とか豚とか猿とか、先づ多くは小《ちい》ツぽけな動物ばかりだ。此の意味からいふと、風早學士は、屠殺者の資格も備へてゐると謂はなければならぬ。で或人が此の慘忍な行爲を攻撃すると、
「成程こりや矛盾《むじゆん》した行爲かも知れない。人間以外の動物を輕侮して、そして虐待するクリスト及びクリスト教徒を攻撃する僕等の爲《す》ることとしては、或は矛盾した行爲かも知れない。雖然《けれども》僕等はピュリタンで無いことを承知して貰ひたい。僕は人間なんで、人間には矛盾の多いものだから、從ツて矛盾の行爲も敢《あへ》てするのさ。併し生體解剖が慘忍だといふならば、都《すべ》ての肉類を食ふ人は皆慘忍ぢやないか。況《ま》して僕等の先輩が、生物を善用して比較解剖をしたればこそ、成熟期に達した人間の女に月經があると同時に、猿の牝《めす》にも月經があるといふ、宇宙の一大事件が發見されたのぢやないか。」
 と辯駁《べんばく》する。
 要するに風早學士は、其の爲る仕事が變ツてゐるばかりで無い。人間も頗る變ツてゐて、世間でいふ變物であツたのだ。それで尚《いまだ》に妻も娶《めと》らず、こつ/\として自然哲學の爲に貢獻しようとしてゐる。一面からいふと、無味乾燥な、極めて沒趣味な生活をしてゐるものと謂はなければならぬ。彼の住《すま》ツてゐる家《うち》は、可成《かなり》廣いが、極めて陰氣な淋しい家で、何時の頃か首縊《くびくゝり》があツたといふ嫌《いや》な噂のある家だ。其處に彼は、よぼよぼした飯焚《めしたき》の婆さんと兩人《ふたり》きりで、淋しいとも氣味が惡いとも思はずに住ツてゐる。そして家へ歸ると直に、澤山の原書を取ツ散かした書齋に引籠《ひきこも》ツて、書《ほん》を讀むとか、思索に耽るとか、設《よし》五分の時間でも空《むだ》に費やすといふことが無い。他《ひと》から見れば、淋しい、單調な生活である。
 此の沒趣味な變人が、不圖《ふと》たツた[#「たツた」に傍点]一ツ趣味ある行爲を爲るやうになツた。といふのは去年の冬の初、北國の空はもう苦《にが》りきツて、毎日|霰《あられ》の音を聞かされる頃からの事で。風早學士は、毎日林檎を一ツポケットへ入れて來て、晝餐の時には屹度《きつと》其の林檎の皮を剥《む》いて喰ツてゐる。寒さの嚴しい日などは煖爐[#底本では「煖燼」の誤り]に※[#火偏に「共」、第3水準1−87−42、228−上段22]《あぶ》ツて喰ツてゐることもあツた。唯喰ツてゐると謂ツては、何んの意味も無ければ不思議も無いが、其が奈何《いか》にも樂しさうで、喰ツてゐる間、氣も心も蕩々《とけどけ》してゐるかと思はれた。子供ではあるまいし、誰にしたツて舌に快味を感ずるばかりで其樣な眞似が出來るもので無い。そこで其の事件が職員室で「林檎の謎」といふ問題となツた。
「自然の謎」を探る生物學者は其の同僚から「林檎の謎」を探られるやうになツた。さて此の謎は、風早學士が外部から受けた刺戟の反應で、此の反應に依ツて、風早學士の内部に非常な變動があツた。實をいふと學士は、此の町に來てから、其の峻烈な寒氣も、其の莊重な自然も、また始終《しよつちゆう》何か考へてゐるやうな顏をしてゐる十萬に近い町の民も、家も樹も川も一ツとして彼の心を刺戟する物が無かツた。彼の心は、例に依ツて淋しくも無ければ、賑《にぎやか》でも無かツた。で讀書と思索とが彼の友となツて格別退屈もせずにゐた。
 然るに或る霧の深い朝のことで。風早學士は、外套の襟《えり》を立て、肩を竦《すく》め白い息を吐きながら、長い脚に靴を穿《は》いて家を出た。そして何時ものやうに、「人間の爲ること考へてゐることに要領の得ぬことが多い。」などと考へながら、泥濘《ぬか》ツた路をベチヤンクチヤン、人通の少ない邸町から==[#2文字分のつながった2重線]其處には長い土塀が崩れてゐたり、
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