崩れた土塀の中が畑になツたりしてゐる==[#2文字分のつながった2重線]横町へ出て、横町から大通へ出る。大通へ出ると、毎朝屹度山の手の方の製絲工場の汽笛が鳴ツて、通は朝の雜沓《ざつたふ》を極めてゐる。市場へ急ぐ野菜車の響やら近在から出て來た炭と柴とを付けた駄馬の鈴の音やら、頭に籠を載せた魚賣の女の疳走《かんばし》ツた呼聲やらがたくり[#「がたくり」に傍点]車の喇叭《らつぱ》の音やら、また何やら喚《わめ》く聲叱る聲、其等全く慘憺たる生活の響が混同《ごつちや》になツて耳に入る。其と同時に、土方や職人や商人や百姓や工女や教師や吏員や學生や、または小ツぽけな生徒などが、何れも憔《いぢけ》た姿、惶々《くわう/\》とした樣子で、幻影《まぼろし》のやうに霧の中をうごめい[#「うごめい」に傍点]て行くのが眼に映る。誰の顏を見ても、恍《とぼ》けてもゐなければ笑ツてもゐない、何か物思に沈むでゐるのでなければ、一生懸命になツてゐるか威張ツてゐるか、大概此の型に定《きま》ツてゐるから、何れも何か目的と意味を持ツて大眞面目であるに違ない。其の眞面目な人間の動いて行く中を、痩ツこけた犬が大地を嗅ぎながら、また何うかすると立停ツて人の顏を瞶《みつ》めながら、ヒヨイヒヨイ泥濘を渉《わた》ツて行く……さもなければ、薄汚ない馬が重さうに荒馬車を曳いてヒイ/\謂ツて腹に波を打せてゐるのが眼に映る。彼が毎朝大通で見るものは大概此樣な物に過ぎぬ。雖然《さながら》人間生活状態の縮圖である。
偶時《たま》にはまた少し變ツた物や變ツた出來事にも打突《ぶツ》からぬでは無い。鳥屋の店先で青《あを》ン膨《ぶくれ》の若者が、パタ/\※[#足扁に「宛」、第3水準1−92−36、228−下段18]《あが》いてゐる鷄を攫《つかん》で首をおツぺしよる[#「おツぺしよる」に傍点]やうに引ン捩《ねぢ》ツてゐることや、肉屋の店に皮を剥がれたまゝの豚が鈎《かぎ》に吊されて逆さになツてゐることや、其の店に人間の筋肉よりも少し汚ない牛肉が大きな俎《まないた》の上にこて[#「こて」に傍点]/\積上げてあることや、其の中の尚《ま》だ活きてゐる奴が二匹ばかりで、大きな石を一ツ大八車に載せて曳いて行くことや、其の後から大勢の人足がわい/\謂ツて騷いで行くことや、または街頭に俥《くるま》に挽《ひ》かれて板のやうにひしやげ[#「ひしやげ」に傍点]た鼠の骸《むくろ》や、屋根の上に啼いてゐる鴉《からす》や電信柱に垂下《ぶらさが》ツて猿のやうに仕事をしてゐる人や、其をまたさも感服したやうな顏で見物してゐる猿の子孫に相違が無いと思はれる人や、それから犬の喧嘩や人の諍《いさかひ》。手錠を箝《は》められた囚人や其を護送する劍を光らせる巡査や、または肥馬に跨《またが》ツた聯隊長や、其の馬の尻にくツつい[#「くツつい」に傍点]て行く馬丁や、犬に乘つた猿や、其の犬を追立《おツた》てて行く猿※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、229−上段6]《さるまはし》や、それからまた妄《やたら》と鞭《むち》で痩馬をひツぱた[#「ひツぱた」に傍点]くがたくり[#「がたくり」に傍点]馬車の馭者《ぎよしや》や、ボロ靴で泥を刎上《はねあ》げて行く一隊の兵卒や、其の兵隊を誘致して行くえら[#「えら」に傍点]さうな士官や、犬を嗾《けし》かけながら犬の先になツて走る腕白小僧や、或は行路病者、※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、229−上段11]國巡禮、乞食僧侶、或はまた癩病患者、癲疳持《てんかんもち》、狂人《きちがひ》、鼻ツかけ、眼ツパ、跛《びツこ》、蹇《ゐざり》、または藝者や素敵な美人や家鴨《あひる》……引ツ括《くる》めていふと、其等の種々の人や動物や出來事が、チラリ、ホラリと眼に映ツてそして消えた。
雖然《けれども》其等の物の一つとして、風早學士の心に何んの刺戟も與へなかツた。風に搖れるフラフ、または空を飛ぶ鳥を見るやうな心地《こゝち》で、冷々として看過した。
其の朝も其の通で。
霧は深かツたが、空は晴渡ツて、日光は燦然《さんぜん》として輝き、そして霧と相映じて鮮麗な光彩を放ツてゐた。彼は二三度空を見上げたが、ただ寒さは感じたばかりで、朗な日光にも刻々に變化して行く水蒸氣《ガス》の美觀にも少しも心を動かされなかツた。初冬の雨上りの朝には、屡《よ》く此樣な光景を見るものだと思ツただけである。そして何時か、此の市《まち》の東の方を流れてゐるS……川に架《か》けられた橋の上まで來た。此の橋の近傍は此の市の一方の中心點となツてゐるので、其の雜踏は非常だ。何處からと無く腥《なまぐさ》いやうな溝《どぶ》泥臭《どろくさ》いやうな一種|嫌《いや》な臭が通ツて來て微《かすか》に鼻を撲《う》つ……風早學士は、此の臭を人間の生活が醗酵《はつかう》する惡
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