臭だと謂ツてゐた。
 彼は此の臭を嗅ぎながら橋を渡りかけた。流は寒煙に咽《むせ》んで淙々と響いてゐた……微な響だ。で、橋板を鳴らす大勢の人の足音に踏消されて、大概の人の耳には入らなかツた。雖然《けれども》悠長な而《そ》して不斷の力は、ともすると人の壓伏に打勝ツて、其の幽韻は囁《さゝや》くやうに人の鼓膜に響く。風早學士は不圖《ふと》此の幽韻を聞付けて、何んといふことは無く耳を傾けた。それからまた何んといふこと無く川面《かはづら》を覗込むだ。流は橋架《はしげた》に激して素絹の絡《まつは》ツたやうに泡立ツてゐる。其處にも日光が射して薄ツすりと金色《こんじき》の光がちら[#「ちら」に傍点]ついてゐた。清冽《せいれつ》な流であツた。
 川面の處々に洲《す》があツた。洲には枯葦が淋しく凋落の影を示《み》せてゐて、埃《ごみ》や芥《あくた》もどツさり[#「どツさり」に傍点]流寄ツてゐた。其の芥を二三羽の鴉が啄《つゝ》き※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、229−中段21]し、影は霧にぼか[#「ぼか」に傍点]されてぽーツと浮いたやうになツて見えた。流の彼方《あツち》此方《こツち》で、何《ど》うかすると燦爛たる光を放つ……霧は淡い雲のやうになツて川面を這ふ……向ふの岸に若い婦《をんな》が水際に下り立ツて洗濯をしてゐたが、正面《まとも》に日光を受けて、着物を搾《しぼ》る雫《しづく》は、恰《まる》で水晶のやうに煌《きらめ》く。其の影はカツキリと長く流に映ツてゐた。兩岸の家や藏の白堊《はくあ》は、片一方は薄暗く片一方はパツと輝いて、周圍《ぐるり》の山は大方雪を被《かぶ》ツてゐた。
 此の光彩ある朝景色も、風早學士に取ツて、また何等の意味も價値も無いものであツた。それで機械的に一とわたり、ざツと其處らを見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、229−下段4]して、さツさ[#「さツさ」に傍点]と橋を渡ツて了ツた。
 何處でも市中の橋際には、大概柳と街燈とを見受けるものだ。此の橋際にも其がある。柳はもう一とひらの葉も殘してゐなかツた。其の柳の下に、十五六の年頃の少女が林檎を賣ツてゐた。林檎は、背負籠の上に板を置いてコテ[#「コテ」に傍点]を並べてあツた。
 其は偶然の出來事ではあツたが、風早學士は不圖此の少女に眼が付いた。少女は、北國の少女に屡《よ》く見受ける、少し猫背のやうな體格ではあツたが、色の白い髮の濃い、ふツくりした[#「ふツくりした」に傍点]顏立であツた。細い美しい眉も、さも温順《すなほ》に見えたが、鼻は希臘型《ギリシヤがた》とでもいふのか、形好く通ツて、花びらのやうな唇は紅く、顎《あご》は赤子の其のやうにくびれてゐた。眼はパツチリした二皮瞼《ふたかはめ》で、瞳は邪氣無《あどけな》い希望と悦《よろこび》とに輝いてゐるかと見られた。
 風早學士は妙に此の少女に心を引付けられた。で、其の飛出したやうな眼で、薄氣味の惡い位ヂロ/\少女の顏を見ながら、其の儘行き過ぎて了はうとして、ふと立停ツた。立停ると、慌《あわただ》しくポケットを探りながら、クルリ踵《きびす》を囘《かへ》して、ツカ/\と林檎を賣る少女の前に突ツ立ツた。そして、
「林檎を呉《くれ》ンか。」と聲を掛ける。
 少女は、紺のつツぽ[#「つツぽ」に傍点]の袖の中へ引ツ込めてゐた手を出しながら、「幾個ね」
 と艶《つや》ツ氣《け》なしに訊《き》く。
「幾個ツて……」を風早學士は、鳥渡《ちよつと》まごツき[#「まごツき」に傍点]ながら、「一ツで可いんだ。」
「一ツかね。」とケロリとした顏で、學士の顏を瞶《みまも》りながら、「大きいのが可いかね、それとも小さいのになさるだかね。」
「大きいのを呉れ……一番大きなのを一ツ。」
「お擇《よ》ンなツたが可い!」
 と投出すやうに謂つて、莞爾《にツこり》する。片頬に笑靨《ゑくぼ》が出來る。
「ま、何《どれ》でも可いから好ささうなのを一ツ呉れ。」といふと、
「然うかね。」と少女は、林檎を見※[#「廻」の正字、第4水準2−12−11、230−上段15]して、突如一つ握ツて、「此《こゝ》らが、ま、好いとこだね。」
「宜からう。」と頷《うなづ》いて、風早學士は林檎を一ツ購《か》ツた。そして彼は、此の少女に依ツて、甚だ強く外部からの刺戟を受けたのであツた。
 此の朝からして、その橋際は風早に取ツて無意味な處では無くなツて了ツた。そして此の朝を始めとして、風早は毎日此の少女の林檎を購ツた。何故か其數は一ツと定ツてゐた。それからといふものは、風早は毎朝其の橋を渡りかけると、柔《やはらか》な微笑が頬に上《のぼ》る。氣も心も急に浮々して、流の響にも鳥の聲にも何か意味があるやうにも感じられ、其の冷い心にも不思議に暖い呼吸が通ふかと思はれるのであツた。此くして以後三月ば
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