て表現されるといふことが、カントのいはゆる綜合的統一の意味でなければならぬであらう。ライプニツは知覺は統一において多樣を表現すると考へた。自己はモナドとしてかかるものである、各々のモナドは自己において世界を映す鏡である。論理は物のうちに、世界のうちにある。物のうちにある論理は何等か直觀的でなければならぬ。直觀から分離して論理を考へようとするのは、構造から分離して作用を考へようとすることにほかならない。構造と作用とが分離し得ぬ限り、直觀と論理とは結び附いたものでなければならぬ。
 自己は環境においてあり、環境が自己において表現され、逆に自己が環境において表現されるところに、多樣における統一、統一における多樣といふ論理の根本形式が與へられてゐるのであるが、かやうな自己は單なる表象的自己ではなくて行爲的自己である。環境が我々に働き掛け、逆に我々が環境に働き掛ける。環境が我々を限定し、逆に我々が環境を限定する。自己といふものもそこに形成されるのである。我々は環境を形成することによつて自己自身を形成してゆく。そこに一般に技術といふものがある。自己も技術的に形成されたものである。行爲的自己は技術的
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