である、とフンボルトはいつてゐる。自己は綜合的統一である、一における多であり、多における一である。構想力の論理は元來かやうなものなのである。
いつたいカントの自己は何處にあるのであらうか。自己はつねに環境にあるといはねばならぬ。主觀に對して客觀と考へられるものが單に身體的自己に對する外界のみでなく、また單に意識的自己に對する身體のみでなく、意識内容もまた客觀と考へられ得るやうに、環境といふものもどこまでも内に考へてゆくことができるであらう。いづれにしても、自己はつねに環境にある。自己が綜合的統一であるといふこともこれに基づいてゐる。ホルデーンに依ると、有機體は環境に、或ひは、環境は有機體に同格化され、これによつて生命が維持される。かくて環境は有機體の構造において表現され、逆に有機體の構造は環境において表現されてゐる。そして構造と作用とは分離することができぬ。そこに論理の根本形式がある。ラシュリエが統一は作用の統一としてでなく形式の統一として見られねばならぬといふとき、それは作用が構造と不可分のものであることを意味するのでなければならぬ。主體が環境において表現され、逆に環境が主體におい
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