い。同時に如何にしてこの統一が、分割されることなしに、我々の感覺の多樣のうちに擴げられ、そしてかくして單にそれ自身の思惟でなく、更に宇宙の思惟であるところの思惟を構成するかが示されなければならぬ、とラシュリエは述べてゐる。そしてカントも、先驗的統覺は元來綜合的統一であり、その分析的統一は綜合的統一を前提すると考へた。「私が與へられた表象の多樣を一個の意識[#「一個の意識」に傍点]に結合し得ることによつてのみ、これらの表象における意識の同一性[#「これらの表象における意識の同一性」に傍点]そのものを表象することが可能である、即ち統覺の分析的[#「分析的」に傍点]統一は何等かの綜合的[#「綜合的」に傍点]統一を前提してのみ可能である」(Kr. d. r. V. B 133)。ところでその場合、思惟は自己自身の存在に對して解き難い謎に面するかのやうに思はれるとラシュリエはいふ。なぜなら、思惟は我々の感覺が感覺そのものとは區別される主觀において結合されるのでなければ存在し得ず、そして感覺そのものから區別される主觀はまさにそのことによつてそれらを結合することが不可能であるやうに見えるから。しかる
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