、そしてこれらの分散した一時的な思惟のすべてを眞の思惟の統一にもたらすために我々は新しい主觀を必要とするであらうから(Oeuvres de Jules Lachelier, I 49)。ラシュリエが擧げた第一の條件は我々自身の統一を意味してゐる。そしてカントのいふ先驗的統覺はまさにこの條件に應ずるものである。先驗的統覺は自己意識であり、自己の同一性の意識である。これなしには如何なる認識も不可能であるとカントは考へた。しからば我々は如何にしてこの我々自身の統一の意識を有し得るであらうか。ここに我々はデカルトを想ひ起すことができるであらう。デカルトが「私は考へる、故に私は在る」といふとき、そのやうな自己意識或ひは自覺を意味したと見ることができるであらう。そしてこのデカルトの命題は推理ではなく直觀的に自證されるものとすれば、かかる直觀がおよそ思惟の可能になる條件でなければならぬ。しかしデカルトの自己は論理的に見ると未だ分析的統一であるといはれるであらう。思惟の可能の條件として要求されるものはこれに反して綜合的統一である。如何にして我々は我々自身の統一の意識を有し得るかを説明するだけでは足りな
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