Kr. d. r. V. A 124)。かやうにしてカントは構想力は感性と悟性とを媒介するものと考へた。形式論理において主語が述語に包攝されるといふやうな述語的綜合とは異る眞理的綜合は感性と悟性との綜合でなければならず、かやうな綜合は構想力によつて可能になるのである。論理と直觀との結合は構想力において見出されるといひ得るであらう。構想力そのものは直觀的である、それは直觀的であつて論理的であるといひ得るであらう。創造的或ひは發見的であるべき認識は構想力の媒介に俟たなければならぬ。
元來、思惟とは如何なるものであらうか。思惟が可能であるためには、ラシュリエのいつた如く、二つの條件が必要であると考へられるであらう。第一の條件は、我々の感覺の各々から區別される主觀といふものの存在である。なぜなら、もしこれらの感覺だけが存在するとしたら、それらは悉く現象と混じ、從つて我々自身或ひは我々の思惟と呼び得るやうな何物も殘らないであらうから。第二の條件は、我々の感覺の同時的竝びに繼起的多樣のうちにおけるこの主觀の統一である。なぜなら、各々の現象と共に生れまた滅びる思惟は我々にとつてやはり現象でしかなく
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