肯定と否定であるから、認識するといふことは、その論理的本質において見ると、肯定または否定することである。ところで肯定或ひは否定において我々はつねになんらかの價値に對して態度をとつてゐる。純粹な理論的認識の場合においてもなんらかの價値に對してとるべき態度が問題になつてゐるのである。しかるに苟も認識の名に値する判斷は必然的な、普遍妥當的な判斷であるべき筈であるから、ここに問題となつてゐる價値も單なる快樂の如き個人的なものでなく、超個人的な、永遠なものでなければならない。それは時間的な心象として終始するところの個人的意識内容に屬することができず、これを超越すると考へられなければならぬ。かやうな超越的價値こそ、リッケルトによると、判斷の對象であり、そしてそれが認識の對象なのである。認識の對象であるかやうな價値は如何なる意味においても存在するといひ得るものではない。それはなんらか物理的な或ひは心理的なものではない。またそれはなんらかの形而上學的存在でもない。或るものが存在するといふことを我々は如何にして認識するのであるか。判斷によつてでなければならぬ。しかるにあらゆる判斷の眞理は肯定のうちに是認された價値にもとづき、專らこの價値の肯定に存するのであつて、存在の認識を含む判斷も、この例に漏れることができない。それ故に價値は論理上存在に先行すべきである。價値は存在するものでなく、却つてロッツェがプラトンのイデアを存在することなくただ妥當(gelten)するものと解したのに倣つて、妥當するといはれ得るのみである。價値は妥當の國に故郷をもつてゐる。これは感性的世界と叡智的世界とのほかにあつて、いはゆる第三帝國を形作つてゐる。

    三 主觀と客觀

 ライプニツはその『人間悟性新論』(Nouveaux essais sur l'entendement humain)においてロックのイデオロギーを一歩一歩批評した。ロックが生具觀念の説を攻撃した諸論據の中には、精神のうちにはそれについて精神が知らぬところの何物もあり得ないといふことがあつた。彼はこの原則をまた他の側から言ひ表はして、精神はつねに思惟するものでないともいつてゐる。これによつてデカルトの res cogitans としての精神、言ひ換へると自己の内容をつねに明晰判明に意識してゐるといふ精神は疑はしいものにされたやうに見える。ライプニツは彼のモナドロジーの思想をもつてロックとデカルトとの間に立つて獨特の位置を占めてゐる。彼が世界の實體と考へたモナドは表象する力であつた。それだからモナドはそのあらゆる瞬間において表象(perceptions)をもつてゐなければならぬ筈である。しかるに一切のモナドは、從つて物質を構成するところのモナドも、心的なものであるとすれば、これらの表象がすべて明晰にして判明であるといふことは不可能である。そこでライプニツは微小表象(petites perceptions)の説を持ち出した。微小表象といふのは意識されぬ表象である。あらゆるモナドは心的なものとしてつねに表象をもつてゐる、けれどもつねに意識された、つねに明晰判明な表象をもつてゐるわけではない。しかしその生命は、無意識的から意識的への、闇冥にして混雜せる表象から明晰にして判明なる表象への發展にある。かやうにしてライプニツは精神が單に諸表象をもつてゐる状態と精神がそれらのものを意識してゐる状態とを區別した。前者を表象(perception)といひ、後者を統覺(apperception)と稱する。從つて統覺は無意識的な、闇冥な諸表象が明晰にして判明な意識に高められ、かくて精神によつて自己自身のものとして認識され、自覺によつて占有される過程である。ところでライプニツによるとモナドは窓をもたない。モナドには窓がない故に、感性知覺を物の心に對する作用と解することは許されない。感性表象はむしろ精神が豫定調和(〔harmonie pre'e'tablie〕)によつて、即ち諸實體の間には調和が豫定されてゐて、モナドの各々はただみづから活動しつつもそのあらゆる瞬間においてすべての他のモナドと完全に相互に一致してゐるといふ原理によつて、闇冥にして混雜せる仕方で微小表象として展開するところの活動と考へられねばならぬ。そして感性表象について行はれる變化はただそれの明晰化、自覺への攝取、統覺と見られ得るのみである。
 このやうにして感性と悟性との區別は、ライプニツにおいて、明晰性と判明性との種々の程度といふことと合致するであらう。兩者は同一の内容をもつのであつて、ただ一は他が明晰に判明に所有するものを闇冥に混雜に表象するといふだけである。精神のうちへは何物も外部から入つて來ない、それが意識的に表象するところのものは既に前に無意識的にそのうちに含まれてあつたものである。精神はその意識的な表象においてもともとそのうちになかつたものをなんら作り出さない。かやうにしてライプニツは、或る意味では、即ち無意識的には、あらゆる表象は生具するものであり、そして他の意味では、即ち意識的には、人間の精神にはなんらの表象も生具してゐないと考へた。感性と知性とはこのやうにして結合される。ライプニツによると、悟性即ち關係附ける思惟の一般的命題も知覺のうちに微小表象として含まれてゐる。既に感性的表象のうちに、後には一般的根本命題として悟性の把握の明晰性と判明性とに持ち來されるところの精神の活動諸形式は、不明晰に混雜して隱されてゐる。感性と知性とのかやうな結合を表現してライプニツはいふ、知性そのものを除いて、先に感性のうちになかつたところの何物も知性のうちにない(Nihil est in intellectu quod non antea fuerit in sensu nisi intellectus ipse.)と。
 カントもまた悟性と感性との、從つて叡智的世界と感性的世界との結合を企てた人と見ることができるであらう。もとより我々はカントとライプニツとの間の根本的な差異を見逃してはならない。ここに先づ二つのことを注意しておかう。第一に、ライプニツは感性と悟性との結合を考へながら、彼において問題になつてゐるのはなほどこまでも悟性の眞理であり、叡智的な存在であつて、ただこのもののためにその結合を考へたのである。物質も彼にとつては心的本質のものにほかならなかつた。彼が永久眞理(〔ve'rite's e'ternelles〕)と事實眞理(〔ve'rite's de fait〕)とを區別したことは有名である。前者は無時間的な妥當性を、後者は一囘的な妥當性をもつてゐる。兩者に共通であるのは、それらが共に直觀的に、言ひ換へるとそれ自身において、なんらか他のものからの演繹によつてではなく、確實であるといふことである。故にそれらは第一眞理(primae veritates)とも呼ばれる。ライプニツは第一眞理の二つの種類、合理的眞理と經驗的眞理とに、デカルトの明晰及び判明の概念を結びつける。これらの概念は二人の哲學者において多少違つた意味で使はれてゐる。ライプニツの規定によると、明晰な表象とはすべての他のものから確かに區別され、その對象の再認に役立つものである、判明な表象とはその個々の要素に至るまで、このものの結合に至るまで、明晰であるところのものである。いま永久眞理もしくは幾何學的乃至形而上學的眞理と呼ばれるものは明晰にして且つ判明である。これに反して事實眞理は明晰ではあるが判明ではない。第一のものにはその反對は不可能であるといふ確信が結びついてゐるけれども、第二のものにおいてはその反對が考へられ得る。前者においてはその直觀的確實性は矛盾律にもとづき、後者においてはその事實的現實性によつて保證された可能性はなほ充足理由律に從つての説明を必要とする。ところでライプニツはこのやうな差別はただ人間悟性の不完全にのみ關係すると考へた。合理的眞理においては我々はその反對の不可能を明視する、經驗的眞理においてはさうでなく、我々は現實の認定に滿足しなければならない。しかし後者にしても物の本性のうちに(in natura rerum)あるのであつて、神の悟性にとつてはその反對は不可能であるやうに基礎附けられてゐるのである。このやうな考へ方とは違つて、カントにとつては固有の意味において認識といはるべきものは經驗的認識であつた。彼は數學的認識の如きもいまだ十分な意味においては認識とはいひ得ぬとした。なぜならそれは經驗に關はるものでないからである。彼の認識論の問題の中心は經驗にあつたのである。第二に、そして最も決定的なことは、次のことである。カント以前の思惟は、ライプニツも含めて、すべて世界の思惟であつた。それは自我無き世界哲學(Welt−philosophie)であつた。神を把捉しようとする試みでさへ、神を一の自我無き實體、一の存在するイデアとすることに到達したまでに過ぎぬ。それは神を自我の深みに求める代りに、神をひとつの世界に、此方の世界の外にあるとはいへ、なほ彼方の世界においたまでである。シェリングがライプニツの神の概念についていつてゐる、ライプニツにおいてはそこにあるすべてのものは非我である、一切の否定以外のあらゆる實在性を結合してゐるところの神ですらがさうである、批判的體系に從へば、自我がすべてである、と。まことに批判的體系といはれるカントの哲學の中心は自我であつた。ここに世界哲學との對立において自我哲學(Ichphilosophie)が生れた。自我を自我ならぬすべてのものに對立させることはカントによつてなされたのである。自我はもはやなんらかの實體(Substanz)ではなく、主觀(Subjekt)である。主觀に對するものは客觀(Objekt)である。自我はあらゆる意味で客觀ならぬもの、却つてあらゆる客觀の根柢である。
 カントの認識論の中心問題は、如何にして認識が對象または客觀に關係し、對象性或ひは客觀性を得るかといふことにあつたのである。このことは次の二つの前提のもとにおいてはいづれも不可能である。第一に、もし對象が主觀の外にそれ自體において獨立に存在し、我々の認識がただこれに從はねばならないのであるとすれば、我々の認識は到底對象性をもつことができない。なぜならこの場合認識は對象の模寫を意味するほかなく、しかるに主觀における模寫が客觀そのものと一致してゐるか否かといふことを確かめ得るところの基準はこのとき見出されない。我々は單に表象と表象とを比較してその間の一致または不一致をいひ得るのみである。ひとつの表象と物そのものとを比較することは、物そのものがまたひとつの表象でない限り不可能であらう。第二に、もし我々の認識がすべて經驗から(a posteriori)來るものであるとすれば、我々の認識は對象性或ひは客觀性をもつことができない。なぜなら經驗は單に然かあるといふことをその場合について教へ得るだけであつて、あらゆる場合に必ず然かなければならぬといふことを示し得ない。即ちただ經驗にのみもとづく認識は蓋然性を有し得るにとどまり、普遍性と必然性とを有し得ない。しかるに認識の對象性或ひは客觀性はその普遍性と必然性とを意味してゐる。かやうにしてカントの認識論は右の二つの前提をくつがへさうとしたのである。
 綜合の概念はカントにとつて最も重要な意味を有するものの一つである。綜合とは多樣の統一をいふ。既にライプニツはモナドを多樣の統一として規定した。各々のモナドはそのあらゆる状態において、一切の爾餘のものを表象し、そして表象の本質にはつねに多樣の統一化が屬してゐる。カントにおいても認識とは多樣の統一である。その統一において統一される多樣は感覺の多樣である。これは認識の内容をなすものであつて、感性によつて與へられる。認識の内容に對してこの内容を一定の關係に秩序づけて統一するには統一の形式がなければならない。ところでカントによると、感覺内容が與へられるとき、このものは既に一定の形式において
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