明晰判明に知られる一切のものは眞でなければならぬ、といふことを彼は學問的方法の原理として据ゑたのである。
デカルトにおけるコギトの發見によつて我々はもはや認識の道徳的條件について語ることを要しないやうに思はれる。なぜならそれは方法的な懷疑によつて見出されるものであるからである。フッサールはデカルトのコギトは彼のいふ純粹意識(reines Bewusstsein)の領域にほかならないといつてゐる。この領域を見出すための方法をフッサールは現象學的還元(〔pha:nomenologische Reduktion〕)と呼ぶ。この還元が行はれるためには、先づ自然的な態度(〔natu:rliche Einstellung〕)が排去(ausschalten)されねばならぬ。超越的な事實はそれによつて直接な意識に内在的となる。次にまた超越的な事實ばかりでなく、超越的な本質が内在的とならなければならない。本質といふのはこれまでイデアといつたものである。フッサールは現象學的還元のもとに超越的自然のみでなく、超越的本質をも、從つてこの本質を研究の對象とする本質學をも引き入れる。我々はそれが如何にデカルトの方法的懷疑に類似してゐるかを見遁し得ないであらう。フッサールは還元を古代の懷疑論者の用語に從つて現象學的エポケー(判斷中止)とも稱してゐる。
意識の本性は志向性(〔Intentionalita:t〕)にある。フッサールはこの考へをブレンターノから得た。ブレンターノは精神現象が獨自の領域をもち、自己を物理現象から區別する特性を求め、これをスコラ哲學に倣つて、對象の志向的内在(intentionale Inexistenz eines Gegenstandes)として規定した。即ち精神現象はなんらかの對象を指示し、或るひとつの内容に關係することをもつて特色とする。我々はすべての心的作用において或るものが對象としてそのうちに含まれてゐるのを見出す。ブレンターノはこの關係を内在的對象性(〔immanente Gegensta:ndlichkeit〕)とも名附けた。即ち、表象においては或る物が表象され、判斷においては何物かが是認もしくは否認され、愛においては愛される何物かを、憎みにおいては憎まれる或る物を、慾望においては欲せられる對象を、我々はそれぞれの心的作用において見出すのである。フッサールはこのやうな思想を承けて純粹意識のノエシス・ノエマ的構造を明かにしようとした。これは何をいふのであらうか。我々はすでにフッサールが現象學的還元を行ふために先づ自然的な態度を排去することを述べた。しかるに彼においてはこのやうな排去は同時に積極的なものに對する準備の意味をもつてゐる。このものは本質化作用(Ideation)である。これは本質の直觀であり、本質の直接的で具體的な把捉を意味してゐる。本質は個物の中にあつてしかもこれを超越する。事實は本質化作用によつてその本質または形相(Eidos)にまで還元され、ここにフッサールのいはゆる本質的還元或ひは形相學的還元(eidetische Reduktion)が行はれる。しかるに本質は一種の超越的なものであるから、更に現象學的或ひは先驗的還元によつて内在的なものとされねばならない純粹意識の領域はかやうな二重の還元によつて得られるものである。それはイデアの純粹内在の世界である。フッサールはプラトン以來イデアと結び附いてゐるヌース(理性的直觀)の語をとつて、純粹意識をノエシス・ノエマ的構造のものとして規定した。ブレンターノのいふやうに、意識の志向性が認められるならば、如何なる意識の作用にも必ず對象が含まれてゐる。ノエシスとノエマとはひとつの意識においてかやうな主觀的側面と客觀的側面とを構成する。如何なる意識についてもつねにこの二つの側面が見出され、この二つのものはつねに相關的な關係を保つてゐる。このやうな相關性は意識のノエシス・ノエマ的構造の第一の原則である。その第二の原則とも見らるべきものは、それと關聯して、ノエマ的側面のどのやうな低度の變化にも必ずノエシス的側面において一々これに照應する要素が認められるといふことである。
我々はフッサールの現象學においてあの生具觀念の問題が巧妙に解決されてゐるのを見るであらう。ここに模寫説的な考へ方の本來の意圖が、模寫説に陷ることなしに顯はにされるに到つたと見ることもできるであらう。この場合次のことが注意されねばならない。第一、そこでは眞理の基準は明證(Evidenz)に求められる。デカルトが既にこの道をとつてゐる。彼は明晰にして判明なる知覺(clara et distincta perceptio)をもつて眞理の標準とした。明晰とは精神にとつて直觀的に現前するもの、判明とはそれ自身において明晰にして、且つ判然と限定されてゐるものをいふ。この意味において明晰判明であり、その明證がいかなる他のものからも導かれるのでなく、專らそれ自身において基礎附けられてゐるものが元來、彼の生具觀念と稱するものであつたのである。第二、明證をもつて眞理の基準とするのは根本的には知覺説として特色づけられることができる。しかるにここにいふ知覺はもとより感性知覺のことではない。デカルトは知覺に二つのものを、感性からの知覺(perceptio sensu)と知性による知覺(perceptio ab intellectu)とを區別した。明證を伴ふのは明かに後のものであつて、それはギリシア人がヌースといつたものにほかならぬであらう。アリストテレスはヌース即ち理性は知覺の如きものであるといつてゐる。かやうな理性的な知覺において事物の本質即ちイデアは十全に與へられ(〔ada:quat−gegeben〕)、かやうなものにして初めて明證的に措定されることができ(evident−setzbar)、そのやうなものが眞理であるのである。いはゆる合理論的な模寫説の本來の意味はここにおいて明かであらう。
經驗論的な模寫説も一種の知覺説であることには變りはない。しかしここでは知性的な知覺でなくて感性的な知覺が問題になる。それは二つの場合において問題となつてゐる存在が異るためである。一はあの叡智的世界を、他は感性的世界を認識の對象として定立する。先に述べたやうに、ヒュームは諸印象が直觀的な確實性をもつてゐるとした。これは經驗論的な認識論の根本前提であらう。しかるにこの根本前提が既に疑はしい。なぜならそこでは純粹に内在的な立場に立つことが許されてゐないからである。それのみでなく、感性的な直觀において與へられるのはつねに個々のものであり、しかるに我々の知識はつねに普遍的な、必然的な關係の把捉を求めるのである。このものは何處から來るのであるか。感性知覺において與へられる諸内容と共におのづからまたその一切の關係が與へられると考へるならば、經驗論は感覺論(Sensualismus)となる。感覺論はあらゆる認識はただ外的な、感性的な知覺からのみ由來すると説く。それは意識における諸要素の單なる共在から認識においてこれらのものの間に存在するすべての關係をも導き出さうとする。それは諸内容の間にどのやうな關係が妥當し得また妥當すべきであるにしても、このものはどこまでもそれらの諸内容に依存するといはうとするのである。けれども感覺論に反對してひとはいふことができる。最も原始的な關係、例へば比較或ひは區別の如きでさへ、個々の内容のいかなるもののうちにも、またその和のうちにも與へられてをらず、むしろそれは與へられた諸内容に對して或る新しいもの、他の種類のものとして附け加はるのである。それだからロックの如きも諸要素を關係づける諸活動、記憶、區別、比較、結合等のものを精神の諸能力(faculties)と稱し、これらの精神みづからの機能の仕方は感覺によつてでなく、反省によつて意識されると考へた。しかしロックは經驗論者としての制限のために、これらの諸活動をも受動的なものとし、感覺の内容に束縛されてゐると見た。
ロックが精神の諸能力に歸したものに我々は自己活動性を與へねばならぬやうに思はれる。このやうな自己活動的な能力は直觀に對して普通に思惟と呼ばれてゐる。しかもここにいふ思惟はギリシア的なヌースでなく、むしろディアノイア即ち比量的な悟性(Verstand)としての思惟である。かやうにして思惟をもつて特にすぐれた認識の作用と見る思想が現はれる。カントの如きはこれに數へられることができよう。カントにとつても認識の對象として問題になつたのは經驗的な存在であつた。直觀は彼においても主として感性的な直觀を意味する。そして彼は感性を受容性(〔Rezeptivita:t〕)として特性附ける。これに反して悟性は自發性(〔Spontaneita:t〕)を本質とするといはれる。悟性のはたらきは何よりも判斷である。そこでカントの如きも判斷をもつて特にすぐれた認識の作用と考へた。
認識は判斷であるといふ思想は現代の新カント學派によつて繼承されてゐるところである。判斷は表象とは異るものである。判斷においては表象においてよりも音が一層明瞭に、一層鋭く表象されるといふのではない。或る音曲に聞きとれてゐる場合、私の全努力はその音の何物も聞き落すまいとするけれども、その音について判斷を下す必要は必ずしもないのである。それのみでなく我々が判斷を下すと、判斷された内容は明かるさと鋭さとにおいて却つて減退するのがつねである。また我々は極めてぼんやりした微弱な音についても、強い、確かな、はつきりした音についてと同じやうに判斷を下すことができる。二つの音が相繼續すると判斷される場合に我々の表象する音と音との關係は、判斷を下すことなしに音の相繼續するのを聞くときのそれと、なんの變りもない。この事實は、判斷においては、表象された音に、その表象から判斷を構成すべき何物かが加はらねばならぬことを證してあまりあるであらう。しからば判斷を形作るこの新しい要素とは何であらうか。多くの人がかやうな新しい要素のなければならぬことを注意してゐる。判斷は一般的にいふと主語表象と客語表象との結合である。ロッツェによると、判斷においては主語と客語との關係の上に、この關係の妥當如何を言ひ表はすべき第二の判斷が存在しなければならない。この第二の判斷といはれる要素がそれ自身表象的なものであつてはならぬことは明かである。なぜならもしこの副判斷にして單に表象された關係しか含まないとすれば、その妥當性を言ひ表はすべき新しい第二の判斷が更に必要となり、かくて副判斷の無限の系列がなければならないからである。ベルクマンは判斷における肯定と否定を、主語と客語との間の單に表象された關係を化して判斷となすところの批評的態度であると考へた。この見解から彼は判斷を單なる理論的態度と見ないで、實踐的性質を帶び、意欲的能力の共存する精神の發現と見なければならぬといふ結論を引出してゐる。またウィンデルバントは判斷(Urteil)と價値判斷(Beurteilung)とを區別する。判斷といふのは價値判斷によつて初めて眞僞が判定されるところの純理論的な表象結合である。我々の思惟にして認識を、從つて眞理を目差してゐる限り、我々の判斷はすべて價値判斷のもとに從屬する。認識の命題はつねに判斷と價値判斷との或る種の結合を含んでゐる。それは表象の結合ではあるが、その眞理價値は肯定または否定によつて決定される、とウィンデルバントはいつてゐる。ところで判斷の本質に關するこれらの見方がなほ幾分心理學的であるのに對して、リッケルトは判斷の本質を純粹に論理的に考察するには、判斷をもつて問に對する答と見れば最も適當であると考へる。問に對する答は、その問の答へられることが可能であり、延いては求められた判斷が可能であるときには、必ず肯定または否定の形をとつて現はれる。判斷の論理的本質は問のうちにある表象的要素の肯定或ひは否定なしには考へることができない。いま認識は判斷であり、判斷の本質は
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