認識論
三木清
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【テキスト中に現れる記号について】
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)自然的な態度(〔natu:rliche Einstellung〕)
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一 存在と眞理
眞理の概念は知識の問題の中心概念である。それだから我々は先づこの概念の檢討から始めよう。
いはゆる模寫説(Abbildtheorie)ほど今日不評判なものはないであらう。誰も自分の考へ方が模寫説であるといはれることを極端に恐れてゐる。模寫説といはれてゐるのは、我々の表象と實在との一致をもつて眞理と考へる思想である。心の外にある物が心の中に映じ、この映像が物に一致してゐるとき、それが眞理であるといふのである。かかる模寫説は到底維持され得ないと評せられる。第一、我々の感性知覺が外的實在の意識のうちにおけるそのままの繰返しであり得ないことは、心理學の知識を俟つまでもなく、日常の經驗において何人にも分つてゐることである。第二に、眞理といはれるものの中には外界の實在と一致しないものがある。數學的眞理の如きはそれである。例へば、圓は一定點から等距離にある點の軌跡であるといふが、このやうな圓は實際には何處にも見出されることができない。第三、我々が表象と實在との一致をどれほど眞面目に確かめようとしても、つねにただ表象と表象との一致が知られるのみであつて、表象と物そのものとの一致は決して知られない。我々は直接體驗の表象と記憶表象或ひは想像表象とを比較し、兩者を同一の對象に關係させることができる、しかし我々はこの對象そのものと表象とを比較することはできないのである。この種の批評が模寫説に對して普通に行はれてゐる。
模寫説は超越的眞理(transzendente Wahrheit)の見方をとつてゐる。即ち意識の外にそれを超越する實在を認め、これとの關係において眞理の概念を規定するのである。しかるにこのやうな超越的眞理の見方は極めて執拗なものであつて、到る處にその影をとどめてゐる。それは、模寫説の難點を免れようとする内在的眞理(immanente Wahrheit)の見方、即ちひとへに表象相互の一致をもつて眞理を規定しようとする場合にも、そのうちに隱されて横たはつてゐる。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるといふ要求は、兩者が共に同一の對象に關係させられるといふことに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとせられるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。我々が科學的理論において形作る諸表象は、我々が經驗によつて得る諸表象と一致すべきであるといはれるとき、そこにはその根柢として、兩者において同一の實在が精神に現はれてゐる筈であるといふ思想がはたらいてゐる。このやうに模寫説は甚だ根源的な、甚だ影響の多い認識理論である。
近代の認識論は模寫説について、第一に、それは素朴な考へ方であるばかりでなく、第二に、カント以前の哲學はその認識理論においてすべて模寫説であつたと看做してゐる。このやうに見ると、模寫説はおよそ非認識論的な考へ方を代表することになるであらう。なぜなら普通に認識論的な考へ方はカントによつて確立されたものであり、カントに始まるとさへ見られてゐるからである。惟ふに、この認識論的な考へ方と模寫説的な考へ方との最も根本的な對立はかうである。即ち前者にとつては、眞理は知識の性格であつてそれ以外のものを意味しないのに反して、後者にとつては、眞理は第一次的には存在そのものの性格であり、そして第二次的に知識の性格を意味してゐる。これは甚だ重要な點である。しかるに近代の認識論はこの點を無視していはゆる模寫説に對して批評を行つてゐるのである。それが批評の對象としてゐるやうな模寫説はむしろ何處にも存しないのであり、いはば單なる認識論的構成物に過ぎない。この事情をはつきりさせることは近代の認識論的偏見を打ち破るために必要なことであるから、更に立入つて論究してみようと思ふ。
我々の認識の素朴な態度は果して模寫説的な考へ方に立つてゐるであらうか。ここに素朴といふのは、前哲學的といふことであつて、單に我々の日常の經驗ばかりでなく、また科學の立場をもいふのであり、從つてそれは一層適切に自然的な態度(〔natu:rliche Einstellung〕)と名附け得るであらう。ところでこの自然的な態度は一般に模寫説としてよりも、むしろヘーゲルにおいての如く思辨的(spekulativ)として特性附けられねばならぬ。このやうな態度のうちには、ヘーゲルがいつたやうに、眞なるものは現實のうちにあり、知覺にとつて現にそこに在るといふ大いなる原理が横たはつてゐる。この原理は抽象的な反省が自慢にする當爲(Sollen)の思想に對立する。この態度においては、眞なるものは現實的なものであり、從つて眞理は第一次的には存在に附けられる名である。故にそこでは追考(Nachdenken)によつて「眞理は認識され」、對象の眞に在るところのものが意識の前にもたらされると信じられてゐる。かやうにして自然的な態度は思辨的な眞理の概念を含むのであつて、いはゆる模寫説の立場に立つものではない。
プラトンは知識(〔episte_me_〕)と意見(doxa)とを對立させた人として知られてゐる。このプラトンの認識理論も近代の認識論によつて模寫説のひとつと見られてゐる。しかしながら、たとひプラトンが認識の作用を模寫的と考へたにしても、彼にとつてはどのやうな存在の模寫でもが知識の意味をもつてゐたのではなく、ただイデアの、言ひ換へると、眞に存在するものの模寫のみが知識であつたのである。我々の感性的表象も或る意味では存在を模寫するであらう。けれどもこの場合存在といはれるものは眞に存在するものでなく、生成し消滅するところのものである。かくの如きものの模寫は、プラトンによると、知識ではなく、意見であるに過ぎない。ただ眞に存在するもの即ちイデアについてのみ眞の知識は可能である。このやうにプラトンは世界を、イデアの世界とゲネシス(生成)の世界との二つに分ち(いはゆる二世界説 Zweiweltentheorie)、知識と意見とを兩者にそれぞれ一義的に屬せしめ、更に人間における二つの活動、理性と感性とをまたこれらのものにそれぞれ一義的に屬せしめた。このやうに三つのものの間に一義的な歸屬關係が結ばれてゐるといふことは注目すべきことであつて、そこから我々は彼の認識理論の意味を學び取らなければならぬ。そこに我々は、等しきものは等しきものによつて知られるといふあの尊敬すべき原理がはたらいてゐるのを認めることができる。天才を知る者は天才のみである、とひとは屡々いつてゐる。ヘーゲルもいつた、侍僕にとつてはなんらの英雄も存しないといふのはよく知られた諺である、私はこの諺に次のやうに附け加へる、けれどもそれは此の者がなんら英雄でないためでなく、彼の者が侍僕である故である、と。恰もそのやうに、人間精神の諸活動のうちただ一定のもののみがすぐれて認識の作用であり得るとプラトンは考へた。純粹なイデアを知るものはそれ自身純粹な理性でなければならぬ。認識は人間のどのやうな精神の状態においても可能であるのではない。そのただ特定の場合だけが認識に適する、認識にとつて充全な態度を可能にする。從つて認識は一定の道徳的條件を前提してゐる。そのためには、我々は情欲を去り、實際的な目的から離れなければならない。一言でいふと、我々は我々の現實的な存在から我々を自由にしなければならぬ。地上の肉體的な生活を脱することによつて天上の、物的ならぬイデアの認識は可能になるのである。もしかくの如くであるならば、プラトンの認識理論が少くとも單なる模寫説でないことは明瞭であらう。我々の心におけるどのやうな對象でもの模寫ではなく、ただ一定の對象の模寫のみが、まさにこの對象即ち眞に存在するものの模寫である故に認識であり、しかもかかる模寫はただ人間の存在における一定の状態竝びに態度においてのみ可能であると考へられたのである。認識に關するプラトンの研究の全努力はかかる一定の對象、そしてそれに十全な作用の性質を純粹に取り上げることに向けられてゐる。
イエスは眞理を宣べ傳へるためにこの世に來たといつた。ピラトはこれに應じて、「眞理とは何か」といふ。聖書に現はれたこの有名な物語の深い意味を汲んで、ヘーゲルは、ギリシア的世界においてプラトンが意見と知識とを對立させたのと同じことが、ここにローマ的世界において現はれた、といつてゐる。キリスト教的哲學にとつて眞理とは第一次的に存在、しかも最も實在的な存在であるところの神そのものである。神は絶對的な眞理である。人間の認識は第二次的に眞理といはれるに過ぎない。しかも如何にして人間にとつて眞理を認識することは可能であらうか。神の被造物としての人間は神との相似(similitudo)においてある存在であるからである。等しきものは等しきものによつて認識される。神と人間との關係は能産的自然(natura naturans)と所産的自然(natura naturata)との關係である。この關係は二つのことを意味するであらう。それは一方では神と人間とが相等しいといふことを、そして他方では兩者の同等がしかし絶對的な同一でないといふことを意味してゐる。このやうな存在論的關係がまた人間の認識の性質を規定する。即ち一方では、人間は眞理としての神に等しいから彼にとつて認識は可能である。けれども他方では、創造者としての神が無限なものであるのに反して被造物たる人間は有限なものであるから、人間の認識は制約的であり、そしてただ一定の條件のもとにおいてのみ彼にとつて認識は可能である。この條件はプラトンにおいての如く道徳的な條件である。もろもろの慾念から離脱することによつて初めて眞の認識は可能になる。そこには、ひとつの情操的な活動がなければならず、このものは、プラトンがすでに愛(〔ero_s〕)といつたやうに、特に愛である。ひとはスピノザの有名な言葉、神の知的愛(amor Dei intellectualis)を想ひ起すであらう。ところで歴史の發展の過程において概括的にいふと次のことが生じたと見ることができる。プラトンにおいて認識の對象であるところのイデアは超越的なものであつた。しかるに既にストア哲學において、大宇宙(Makrokosmos)と小宇宙(Mikrokosmos)との、言ひ換へると、世界全體と人間との類比(Analogie)が説かれ、それと共に魂の概念が深められるに及んで、イデアは魂に内在的なものとされるに到つた。キリスト教的哲學においてはイデアは第一に神の内容として表象される。ルネサンス時代の新プラトン主義者たちは、ストアの模範に倣つて、この根源的な認識即ちイデアは精神に本性上屬するものであつて、誕生と共に神からそれに賦與されてゐるものであると考へた。デカルト及びその學派においてこの思想はいはゆる生具觀念(ideae innatae)の思想として發展させられたのである。デカルトは觀念に三つの種類を區別した。一、生具觀念、二、外來觀念(ideae adventitiae)、三、虚構觀念(ideae factae)。第一のものは我々の意識そのものの本質から發し、そのうちに座をもつてそれと離れ得ぬものである。第二のものは、私がいま音を聞き、太陽を見、火の熱を感ずるとき、外部から私の心のうちに生ずる觀念である。第三のものは我々の氣隨に從つて作られる觀念である。ギリシア神話における海のニンフたるセイレーネスの如きはこれである。デカルトは眞理(veritas)の觀念そのものを、物(res)及び意識(cogitatio)の觀念と共に、生具觀念のなかに數へてゐる。そしてデカルト
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