與へられるのである。直觀には直觀の形式がある。空間と時間とがそれである。これらのものは物に具はつてゐる性質ではない、從つて經驗的直觀にもとづくものではない。ライプニツは空間がつねに物體の知覺において現はれることを知つたが、彼はデカルトなどのやうに空間または延長を物體そのものと同一視しなかつた。物體の實體は彼にとつてむしろ力であつた。そこで彼は合理的な、明晰且つ判明な認識は物體を力として把握するに反して、闇冥にして混雜せる、感性的な認識はそれを空間として把握すると考へた。空間は實體ではなく、むしろ心における存在(ens mentale)として現象ではあるけれども、諸實體の力の生産物としてよく基礎附けられた現象(phaenomenon bene fundatum)である。時間についても同樣にいはれ得る。このことから物體のこの空間的な現象の仕方に關係するところの力學の諸法則はなんら合理的な、幾何學的な眞理でなく、却つて偶然的な、事實的な眞理であるといふことが歸結されねばならぬ。カントはライプニツのやうに考へては算術、幾何學、力學などの認識の普遍性と必然性との根據は明かにされ得ないことを知つた。空間及び時間は經驗的直觀ではなくて純粹直觀(reine Anschauung)であると彼はいふ。その意味はそれらが直觀の形式として先驗的(a priori)なものであるといふことである。從つて認識の内容となる直觀そのものが既にカントにおいてはひとつの綜合概念であると見ることもできる。即ちそれは二つの全く相異る要素、感覺素材とこれを結合する時間竝びに空間の形式、一は經驗的なもの、他は先驗的なものから成立つてゐる。
カントによると認識は本來論理的なもの即ち判斷である。判斷は思惟または悟性の作用にもとづく。カントは、我々が直觀の多樣のうちに綜合的統一を作り出すとき、我々は對象を認識する、といつてゐる。判斷の能力である悟性がかやうな統一を作り出すのである。この統一において統一されるもの即ち認識の内容は思惟みづからの作り出すものではなく、直觀に俟たねばならぬ。しかし直觀のみでは認識の内容が與へられるのみであつて、認識はない。認識はこの内容が悟性の形式によつて統一されたとき初めて成立するのである。かくてカントの有名な言葉がある、内容なき思想は空虚であり、概念なき直觀は盲目である、と。直觀の多樣を綜合的統一において思惟する悟性の諸形式をカントは純粹悟性概念(reine Verstandesbegriffe)或ひは範疇(Kategorien)と呼んでゐる。このものは先驗的なものである。もしさうでないならば、我々の認識の客觀性即ち普遍性と必然性とは保證されることができない。ここに我々は經驗論にいふ經驗とは根本的に異るところのカントにおける經驗の概念を理解することができるであらう。カントの認識論の中心問題も經驗であつたのである。カントはいふ、經驗一般の可能性の諸條件は同時に經驗の諸對象の可能性の諸條件である、と。カントの理論哲學の核心をなすこの命題は、存在の諸條件と認識の諸條件とが相互に一致するといふことを言ひ表はしてゐる。これは何を意味するのであらうか。カントは知覺判斷(Wahrnehmungsurteile)と經驗判斷(Erfahrungsurteile)とを區別したことがある。知覺判斷といふのはただ諸感覺の空間的時間的關係が個人の意識にとつて言ひ表はされるところの判斷である。これに反して經驗判斷はこのやうな關係を客觀的なものとして、あらゆる認識する意識にとつて妥當するものとして、言ひ換へると、對象のうちに與へられたものとして主張するところの判斷である。兩者の認識論的相違は、經驗判斷においては諸感覺の空間的或ひは時間的關係が範疇によつて、即ち概念的な聯關によつて規則附けられ、基礎附けられてをり、しかるに知覺判斷にはこのことがないのによるのである。かやうにして例へば、二つの感覺の繼起は、その一が他の原因であるといふことによつて基礎附けられてゐるものとして思惟されるとき、對象的となり、客觀的或ひは普遍妥當的となる。ところで因果の概念は範疇の一つである。諸感覺のあらゆる個々の空間的時間的綜合態はこのやうな悟性の形式によつて規則的に結合されるとき初めて對象となる。經驗の對象は思惟によつて構成されるものである。それだから對象の經驗或ひは認識は可能である。我々の概念的綜合の諸形式が自然そのものを規定してそれを初めて自然として成立させる諸條件である故に、自然についての我々の普遍的にして必然的な認識は可能である。我々の認識が對象に從ふのでなく、對象が我々の認識に從ふのである、とカントはいつてゐる。かやうにしてすぐれた意味での經驗は、諸感覺の空間的時間的綜合が悟性の形式によつて規定されてゐるところの體系である。
ところでこのやうに經驗的對象界を構成すると考へられる意識は個人的な意識であることができない。もしさうであれば、認識は對象性即ち普遍性と必然性とをもつことができないからである。カントはそのやうな意識を意識一般(〔Bewusstsein u:berhaupt〕)と稱してゐる。これは自我とも呼ばれ、超個人的なものである。このやうな自我の概念は人間の存在についての一定の解釋の仕方を豫想して成立するであらう。それはルッターの宗教改革の精神の上に立つてゐるものと考へることができる。ルッターは神を人格の最も内面において見出した。人間が神と自由に、密接に交通し得るのは彼の人格の核心においてである。ひとは神を外に求むべきではなく、自己のうちに求むべきである。自己の精神のうちに神は宿つてゐるのである。個人の本質をかくの如く神的な超個人的なものとして把握するとき、自我は初めて對象界の構成者と看做されることができるであらう。尤もカントの自我は直ちに神と同一視さるべきではない。人間的認識の唯一の對象は彼にとつて經驗である。經驗を超越するところの物自體(Ding an sich)の認識は我々にとつては不可能である。蓋し認識はいつでも内容と形式との綜合であつて、形式は思惟の自發的な活動に屬するけれども、内容は思惟みづからの生産するものでなく、却つて思惟はこれを直觀に仰がねばならぬ。しかるに直觀は我々においてただ受容的感性的である。いまもし感性的ならぬ種類の直觀があるとすれば、このものにとつては範疇の助けによつてまた他の種類の諸對象が存在するであらう。しかしながらかかる人間的ならぬ直觀の諸對象は、この直觀がまた與へられた感覺諸内容をなんらかの仕方で秩序づけるにとどまる如きものであるとすれば、物自體ではなく、どこまでも單に現象であるであらう。しかるにもし受容的ならぬ種類の直觀、それ故に單に形式ばかりでなく、内容をも綜合的に生産するやうな直觀があるとすれば、このとき直觀の諸對象はもはや現象ではなく、物自體でなければならぬであらう。かくの如き能力はカントによつて知的直觀(intellektuelle Anschauung)或ひは直觀的悟性(intuitiver Verstand)と名附けられた。それは人間においては分離して現はれるところの二つの認識力、感性と悟性との統一である。知的直觀は人間のものではなく、ただ神のものである。もとより感性と悟性とは人間において分れてゐるにせよ、さきに示されたやうに、兩者はここでも互に他を指し示し合ふことによつて、その隱された共通の根源を暗示してゐる。かやうにしてカントにとつても、既にプラトンやデカルトなどについて述べておいた如く、人間は一個の中間的存在である。人間は叡智的なものと感性的なものとの中間者である。ただカントにおいては神は深く内面化されてゐる。人間を神そのものの位置にまで進めたのは、或ひは神そのものを自我として、絶對的自我として敢て把握するに至つたのは、フィヒテやヘーゲルの哲學であつた。かくて彼等においては、カントのばあひ人間的認識の限界の外におかれた物自體はもはや解消されてしまふことができた。彼等の哲學は、一言でいふと、知的直觀乃至直觀的悟性の哲學である。
カントの哲學は現代に對して最も決定的な影響を與へた。新カント學派の有力な諸傾向はそれを主として認識論上の論理主義(Logizismus)の意味に徹底して解釋して自己の哲學を立てようとした。いまかかる哲學の歸結をひとつの例をもつて示しておかう。前にいつたやうに、リッケルトは認識の對象を價値であると看做した。カントにおいては認識の對象はどこまでも經驗であり、從つて存在であつた。しかるにリッケルトは存在の概念を全くぬきにして認識の對象を規定する。カントのいふ認識の對象性は、一方そして根源的には、認識は存在としての對象に關係するといふことを、そして他方その論理的意味として認識の普遍性と必然性とを意味した。從つてそれは單に論理的な意味のものでなく、却つて存在論的な(ontologisch)、むしろ論理的・存在論的な(logisch−ontologisch)意味のものであつた。カントが自己の哲學的立場を名附けたところの先驗哲學(transzendentale Philosophie)といふ語は、根源的にはギリシア語の ontologia(存在論)のラテン語譯なる philosophia transcendentalis と關係してゐる。しかるにリッケルトは對象性といふものを全く論理的な意味に解する。そして主觀の概念についても同じことが行はれる。リッケルトは主觀の概念を三樣に區別してゐる。これに客觀の三樣の概念が相應する。第一に、我々は普通に外界を客觀と看做してゐる。外界とは、我々の理解するところでは、自己以外の空間中にある世界を意味する。そしてこの外界に對立させられるものは我々の身體である。ここにいふ身體は、その中にはたらくと考へられる精神をも含めていふのである。それだからこの場合には我々の精神をも包括する身體が主觀であり、この身體を圍繞する空間的世界が客觀となる。第二に、更に身體と、これを我々に意識させる表象とを區別してみると、我々の身體もまた外界に數へられることができる。かくて自己の意識から獨立に存在すると考へられる一切のもの、即ち全體の物理的世界及びすべて他人の精神生活などは外界に含め得る。この場合外界に屬しないものと見られるのは自己の精神的自我があるばかりである。このとき自己の意識とその内容とが主觀となり、客觀とは自己の意識内容以外の、或ひは意識そのもの以外のすべてである。第三に、更に第二の場合において主觀そのものであつたところのものを主觀と客觀とに分析することができる。ここにいふ客觀とは自己の意識内容、即ち自己の表象、知覺、感情或ひは意欲等のものであり、この内容を意識するものが主觀となるのである。ところでリッケルトは眞に認識主觀と考へらるべきは第三のものをどこまでも推し進めたものでなければならぬとした。それは客觀となし得るものは盡くこれを客觀となし、如何にしても客觀とすることのできない最後の主觀である。それは如何なる意味でも存在でなく、むしろ單に一の概念、一の限界概念(Grenzbegriff)である。リッケルトはカントの意識一般をかく解した。それは純粹に論理的主觀であり、リッケルトによつて判斷意識一般(〔das urteilende Bewusstsein u:berhaupt〕)として規定される。我々はここにカントにおける自我の内面性或ひは精神性が全く失はれてしまつたのを見出すのである。
ついでながら我々はカントの自我或ひは意識一般をフッサールのいふ純粹意識の如く解することを避けねばならぬ。純粹意識はフッサールにおいて超個人的なものでなく、また全く形式的なものでもなく、内容に充てる個人的主觀性である。そして彼によると、世界の客觀性はかかる純粹意識のただ一個によつて還元し盡すことはできぬものであつて、これを殘りなく還元するには多數の主觀の共同的還元に俟たなければならない。かかる多數主
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