換えると、我々の心が存在を模写するにしても、受動的な直観においてでなく、その加工によって生ずる思惟の生産物においてでなければならぬ。即ち摸写が与えられたものをただ受動的に写すことを意味する限り、模写説の成立する余地はない。我々がそれを摸写するといわれるものは、既に与えられているものでなければならぬ。しかるに知識において見ることは予見することである。見ることが予見することであるによって、知識は、本質的に未来に関係付けられている行為に役立つことができる。ところで予見されるものは未だ与えられていないものであるから、これを模写するとはいわれないであろう。かようにして認識が模写であるということは、認識の究極の意味に関わり、認識はその究極の意味において存在と一致しなければならぬということになるであろう。尤《もっと》もこの場合、模写ということは文字通りには考えられない。そこには思惟の加工があるのであるから。認識するとは加工することである。しかし思惟のいかなる加工物も、その究極の意味においては存在と一致することを要求されており、従って存在に制約されている限り、認識には模写的意味があるといい得るであろう。認識における思惟の活動は無制約でなく、直観に制約されている。直観に制約されるというのは存在に制約されることであるとすれば、直観には物を写すという意味がなければならぬであろう。模写説においては直観が、感覚の如きもの、もしくは何等かの知的な直観が、重んぜられるのがつねである。デカルトは知覚に、感官による知覚と知性からの知覚とを区別したが、経験論的ないし実証論的立場における模写説は前者を、合理論的立場におけるそれは後者を、認識の根柢においているといえるであろう。
模写説は、認識はつねに客観に制約されると考える点で、真理を含んでいる。客観に全く制約されない認識というものはない。しかるに物を写すには一定の条件が必要である。我々は光の中において初めて物を写し得ると考えられるであろう。いわゆる「光の形而上学」は古くから意識的に或いは無意識的に認識理論の基礎となっている。プラトンは善のイデアを太陽と比較し、それは認識される対象に真理を賦与し、認識する主観に認識能力を賦与すると考えた。光の形而上学はキリスト教の影響のもとに発展し、認識は神の光に照明されることであるという思想となったが、かような超越的なものを排した場合にも、デカルトに見られる如く、いわゆる自然的光によって明晰で判明な知覚は与えられ、この直観的明証が真理の基準とされたのである。感性知覚の如きものにも物を写すという意味がある以上、それは単に盲目的なものとは考えられないであろう。かくの如く客体がそのものとして顕わになるということは、さきに述べたところに依ると、主体の超越によって可能になる。主体の超越がなければ認識が模写であるということも考えられない、模写説も根源的に主体的条件のもとに立っている。
しかし前から論じてきた如く、認識が模写であるということには種々の困難がある。その困難は、我々の観念は物の模写でなくて記号であると考えることによって除かれ得るように思われる。特に知識はただその究極の意味において存在の模写であると考えてゆけば、それは存在の摸写でなくて記号であると考えて好いであろう。模写説においても、ロックの場合の如く、感覚はしばしば物の代表と見られている。代表ということを一歩進めると記号である。記号は模写の意味を離れた代表である。かようにして知識は模写であるという説に対して、知識は記号であるという記号説がある。模写説が常識的世界観に符合するところに強味をもっているのに対して、記号説は科学的世界像に符合するところに長所をもっている。それに相応して模写説と記号説との間には、知識の見方についてのみでなく、存在の見方についても相違がある。記号において表わされるのは物であるよりも物の関係である。そして近代科学の特色は、物を物としてそれだけに研究するのでなく、物と物との関係を研究すること、或いはむしろ物を関係において研究することにある。近代科学は物概念において思惟するのでなく、関係概念において思惟するのである。古代的思惟においては、物といわれる実体があって、関係はそれに附帯するものと考えられた。しかるに近代科学においては、物は関係に分解され、関係から物が構成される、関係は法則として現わされ、物は諸関係の網の結び目の如く考えられる。物の知識は模写でなければならぬとしても、関係の知識、法則の知識は模写でなく、むしろ記号であるといわれるであろう。概念、数、公式等はそのような記号である。
しかしながら知識は記号であるとしても、記号は何物かの記号でなければならず、記号されたものに対する関係を離れて記号は記号の意味をもつことができず、ましてその記号が知識の意味をもつことは不可能であろう。物理の法則が数式をもって表わされるにしても、物理学は数学に解消されるのでなく、その数式の物理的意味が問題である。記号は記号としていかに任意のものであり得るにしても、その内実の意味においては客観に制約されているのでなければ知識であり得ない。その客観からの制約を広く知識の模写的意味と称するならば、知識はつねに何等か模写的意味を含まねばならぬ。
科学は現象を説明するのでなく記述するのみであるという説は、知識が記号であるという説に近く立っている。知識が記号であるとすれば、それは現象を説明するのでなく記述するに過ぎないということになるであろう。キルヒホフの言葉に依ると、自然科学の任務は、自然現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することである。かような場合、認識の目的は最も経済的に思惟することにある。科学は最小限の思惟消費をもってできるだけ完全に事実を記述することを目的とする、とマッハはいっている。マッハやアヴェナリウスに依ると、概念、公式、方法、原理等は、できるだけ勢力を節約して経済的に環境に適応することを可能にするものであり、その価値は思惟経済上の価値によって決定される。思惟経済説は、有用なものが真理であり、真理の標準は有用性にあるとする実用主義(プラグマティズム)の一種である。科学が概念構成によって、また法則の発見によって、多様な現象を包括し、要約し、人間の勢力を節約させるという思惟経済上の価値をもっているということは事実である。けれども単に有用性の見地から考える場合、知識は相対的なものになってしまわねばならぬであろう。知識は有用であるから真理であるのでなく、真理であるから有用であるのである。「人間の思惟は客観的真理を正しく模写するとき、経済的である」。「認識は、客観的な、人間から独立な真埋を反映するときにのみ、生物学的に有用であり、人間の行動にとって、生命の保存にとって、種族の保存にとって有用であり得るのである」、と唯物論者も模写説の立場からいっている。
尤《もっと》も、記号説も或る正しいものを含んでいる。知識は単なる模写でなく、何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっている。知識は一般に言葉において表現されるが、そのことが知識にとって偶然的な、外面的なことでないとすれば、知識は本質的に何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっているのでなければならぬ。数学の如きも物理学にとっての言葉と見られ得るであろう。思惟と言葉とは不可分のものであって、言葉に表現されない知識は知識でないということもできる。認識もまた人間の形成作用、表現作用のひとつである。知識を象徴的なものと見ることは、知識を主観的なものにしてしまうことではない、単に主観的なものは象徴的とはいわれない。象徴とは主観的なものと客観的なものとの統一であり、知識も主体と客体との関係から成立するものとしてかような性質のものであると考えられるのである。もちろん、知識が象徴的であるというのは、芸術が象徴的であるというのと同じではない。しかし一方知識においても、自然科学から歴史科学、更に哲学に至るに従って一層象徴的なものになるといい得ると共に、他方芸術においても、フィードレルの考えたようにその目的は美であるよりも真理であるともいい得るのである。象徴的なものは表現的なものである。真理と言葉(ロゴス)とが同じに考えられたように、真理とは表現的なものである。表現的なものは単に主観的なものでなく、却って超越的意味を含むものである。かように表現的なものとして真理は我々に呼び掛けるのである。知識は言葉において表現されることによって主体から離れた独立なもの、公共的なものとなり、知識も文化に属している。知識は単に我のものでも単に汝のものでもなく、公共的なものとして、客観的なものでなければならぬ。
真理は対象と観念との一致であると考えるのは古い伝統である。これは模写説の主張であるのみでなく、カントの如きもこれを認めている。彼にとっての問題は、いかにしてそのような一致に達し得るかということであった。その場合、模写説においては、我々の認識は対象に従わねばならぬと考えられる。しかるにカントに依ると、我々の認識が対象に従うのでなく、逆に、対象が我々の認識に従うことによって、その一致は可能になるのである。これがカントのコペルニクス的転※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]と称せられるものであって、あたかもコペルニクスによって天動説が地動説に転換されたように、それまで客観を中心としていた認識論が主観を中心とすることになったのである。模写説が客観主義であるに反して、カント主義は主観主義である。しかしそこにはまた真理概念の転換がいわば隠されて横たわっていることを指摘することができるであろう。模写説においては、真理は第一次的には存在に属し、知識の真理はこれに関係付けられることによって第二次的に真理であると考えるのが普通であり、そうすればそこに認められる原型的と模像的との関係を模写の関係と考えることもあながち不当とはいわれないであろう。しかるにカント主義においては、真埋はひとえに知識の真理と見られているのである。
カントのコペルニクス的転※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]の意味は誤解されてはならない。それは、真理は物と観念との一致であるという真理概念を破棄しようとするのでなく、却ってその一致はいかにして可能であるかを明かにしようとするのである。その一致は、我々の認識が対象に従わねばならぬとするときには保証されず、逆に、対象が我々の認識に従わねばならぬとするときに保証されると主張するのである。そしてカント自身がいっているところでは、この考え方は近代科学の方法に相応するものである。近代科学の最も重要な方法は実験である。学問の方法として古代においてソクラテスが概念を発見したのに対して、近世においてリオナルド・ダ・ヴィンチは実験を発見した。実験は単なる経験と異っている。経験は我々が対象から触れられることとして受動的なもの、模写的なものと見られるに反して、実験においては我々は能動的であり、構成的である。実験において自然科学者はあらかじめ一定の観念をもって臨み、自然を強要して彼の問に答えさせる。実験において経験は単に与えられたものでなく、実験者の観念によって構成されたものであり、経験は実験者の観念に従うのである。経験を構成することによって経験するというのが実験である。かような事情に相応して、カントは、主観は対象を構成することによって対象を認識すると考えたのである。我々はこれを模写説に対して構成説と呼ぶことができるであろう。
カントに依ると、知識は感覚に与えられたもののうちに統一がもたらされるところに成立する。感覚に与えられたものは多様なものであり、知識の内容をなすものである。しかし内容だけでは統一がなく、知識とはならぬ。知識が成立するためには、内容に形式が加わらねばならず、知識はすべて内容と形式とから成っている。感覚は物そのものに触発されて生ずるものであり、物そのものに制約されている。これに反して内容を
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