て考えるのでなく、むしろ存在について考え、真理はもと存在のうちにあると見ているのである。模写説に依ると、心の外にある物が心に写され、それが物と一致しているとき真理である。模写説は超越的真理概念をとっている。即ちそれは、意識を超越して独立に存在するものを認め、これとの一致において真理を考えるのである。模写説に対しては、我々がどれほど真面目に我々の表象と物との一致を確かめようとしても、つねにただ表象と表象との一致が知られるのみで、表象と物の一致は決して知られないという非難がある。我々は直接体験の表象と記憶表象或いは想像表象とを比較し、両者を同一の対象に関係させることはできるが、この対象そのものと表象とを比較することはできないといわれている。そこで超越的なものを排して純粋に内在的に考えてゆこうとする内在的真理概念が現われる。それはひとえに表象相互の一致として真理を規定しようとするのである。しかしながら超越的真理概念は極めて執拗なものであって、内在的な見方のうちにも隠されて横たわっている。この場合、二つの表象が相互に一致すべきであるという要求は、両者が共に同一の対象に関係しているということに基礎をもたねばならない。二つの表象が相互に等しいとされるのは、それらが第三の、それ自身は表象ならぬものに等しい故でなければならない。科学において形作られる表象は経験によって得られる表象と一致すべきであるというとき、そこにはその根柢として、両者において同一の実在が精神に現われている筈であるという思想が働いている。かように超越的真理概念は到る処その影をとどめている。真理が内在的なものと考えられぬことは論埋主義者も認めているのであって、彼等が心理主義を排斥するのは実は認識の対象の超越性を主張するためである、その際彼等が認識の概念から存在の概念を駆逐することになったのは、存在を意識に与えられた観念と見る彼等の主観主義的前提の結果であり、かようにして彼等は、認識の対象は存在でなく超越的価値であると考えるに至ったのである。
 真理は知識の真理として、存在においてでなく思惟においてあるものとして、一定の構造と性質のものでなければならぬといわれている。すでにアリストテレスは、本来の意味における真及び偽は、結合と分離もしくは肯定と否定に関わり、従って判断にのみ属すると考えた。表象とか直観とかは本来の意味においては真或いは偽と語られないのである。またライプニッツは、真理の本質は主語と述語の連結のうちに横たわり、その結合は主語のうちに述語が含まれることであると論じている。しかるに、真理である言表或いは命題の構造と性質がいかに考えられるにしても、命題の真理は一層根源的な真理即ち存在的真理に根柢をもたねばならぬ。真理はただ判断に属するというのでなく、却って判断が存在と一致する限りにおいて判断に属するのである。我々が汝は色が白いと語ることが真である故に、汝は色が白いのでなく、却って汝は色が白い故に、かく語ることによって我々は真を語るのである、とアリストテレスもいっている。真理とは存在がそのものとして顕わであることである。しかるに存在がそのものとして顕わであるためには、存在は超越的でなければならぬ、言い換えると、私から独立であること、私に対して距離の関係に立っていることが必要である。客観の超越なしには真理は考えられない。
 しかるにさきに述べた如く、客観の超越は主体の超越によって可能になるのである。物が客観として超越的であるのは、我々自身が主体として超越的であるためである。我々における主体への超越が同時に我々に対する客体の超越である。物が客観として超越的であるのでなければ、我々は物を客観的に認識することができず、我々が主体として超越的であるのでなければ、物は客観として超越的であることができない。主体は内において自己が自己を超えることによって真の主体となる。超越は人間の作用のうちの一つの作用に過ぎぬという如きものでなく、却ってそれによって他の一切の作用が、従って認識の作用もまた、可能になるところのものである。超越は主体の本質であり、主観性の根本構造である。主体というものが先ずあって、それが他の作用と並んで一つの作用として超越をもなすというのでなく、そもそも主体であるということが超越においてあることである。人間存在の超越性によって、一切の存在するものをそのものとして顕わにすること即ち真理が可能になる。物から遠くあることによって物に真に近づくことができる。認識主観はかように超越的な主体でなければならぬ。知識は客観性をもたねばならぬ故に、主観は単に個人的なものであることができない。そこでカントは認識主観を意識一般と考えた。意識一般というのは超個人的な主観、超個人的な我のことである。それはひとつの抽象物に過ぎず、現実の我、現実の主観ではないといわれるであろう。そこで意識一般は当為であるとか規範であるとかと答えられる。けれども主観という以上、それは働くものでなければならぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実の人間は超越的なものとして、内において自己が自己を超えるということがあり、超個人的といわれるような意味をもつことができる。主体の超越において認識主観としての意識一般も考えられるのである。かようにして根源的には主体の超越によって初めて存在はそのものとして顕わになるとすれば、真理は本来知識の真理を意味するということもできるであろう。
 物を知るためには我々は誠実でなければならず、さもないと真理は知られない。誠実とは己れを空しくすることであり、それによって存在はそのものとして我々にとって顕わになる。己れを空しくするとは内において自己が自己を超えることであり、それによって自己は却って真の自己となる。誠実或いは真実は物のまことに対して人間のまことのことである。人間のまことは物のまことを知るための条件である。しかるに人間のまことは、まこととして、それ自身において積極的にひとつの真理概念を現わしている。それは主体が自己を隠すことなく顕わであることであって、客観的真理に対する主体的真理を意味している。客観的存在の真理があるのみでなく、主体的存在の真理がある。主体は単に客観的に知られ得るものでなく、主体的自覚によって知られるのであるが、その真理は客観的真理とは区別されねばならぬであろう。真理を単に客観性と同じに考えることは正しくない。客観的真理と主体的真理とは、その対象においても、その認識の仕方においても、異っている。ハイデッゲルの語を借りて、前者を存在的真理、後者を存在論的真理と称することもできるであろう。自覚は超越によって可能になるのであるから、主体的真理も超越を根拠としている。純粋に内在的な真理というものはなく、外に一致すべきもののない知識も内において超越的なものとの関係を含むのでなければならぬ。対象的認識でなく場所的自覚である哲学の真理はそこから考えられるのである。客観的真理が世界についての[#「ついての」に傍点]真理の問題であるに反して、主体的真理は世界における[#「おける」に傍点]真理の問題である。
 真理は超越的なものであるといっても、ただ客観的にあるものではない。我々から単に独立であって我々に決して関係付けられることのないものは、存在といわれるのみで、真理とはいわれないであろう。真理はもと存在に属すると考えられるとしても、この存在が我々の主観に関係してくるところに真理といわれる意味がある。真理は単に自体における存在でなく、自体における存在が我々にとっての存在となるところに真理の意味があるのである。主体の作用によって存在はそのものとして顕わになるのであって、主体の超越はその根柢的な条件である。そこで真理とは本来知識の真理をいい、存在の真理は知識の真理に従って比論的に名付けられるに過ぎないと考えることができる。知識は主体と客体との関係のうちにあって、その関係から真理は真理になるともいわれるであろう。存在における真理というものはいわば即自態における真理に過ぎず、それが知識における真理となることによって対自態における真理となり、その知識に従って主体が行為することによって真理は再び存在における真理となり、即自対自態における真理となる。世界についての真理は主体を通じて世界における真理となり、それによって現実的に真理となる。真理は究極は世界における真理の問題として主体に関係しており、真理が何よりも知識の真理を意味すると考えられるのも、根源的にはそれに基いている。真理は働くもの、人間を変化し、存在を変化するものでなければならぬ。「生産的なもの、それのみが真理である」、とゲーテはいった。客観的真理は主体的真理に関係付けられることによって、その根拠もその意味も明かにされる。人間のまことによって物のまことは顕わになり、物のまことに従って働くことが人間のまことである。真理は単に知識の問題でなく、同時に倫理の問題である。真理は我々を喚《よ》び起すものとして表現的なものでなければならぬ。やがて我々が知識は主観的・客観的に形成されるものであるといおうとするのも、根本においてはそのためである。

      二 模写と構成

 知識は主体と客体との関係において成立するが、そのいかなる関係において成立するであろうか。普通の考え方はすでに触れた模写説である。模写説は人間の自然的な世界観に一致し、そこに強味をもっている。それは、我々の心がその外にある存在を模写することが認識であり、真理は物と観念との一致であると考える。模写説は心の外に物があると素樸に考える素樸実在論であり、かように考えることは独断であるといわれている。けれどもすでに論じたように、模写説は超越的真理概念をとり、客観が超越的なもの、我々から独立なものであることによって知識は成立すると考える点で、正しい動機を含んでいる。しかしそれは翻って、我々に対する客観の超越は我々における主体への超越によって可能になるということを考えない点で、独断的であるといわねばならぬ。
 普通に模写説は我々の心が鏡の如く物を写すと考えると理解されている。仮に我々の心が鏡の如きものであるとしても、この鏡の性質が問題であろう。鏡は一般に物を写し得る性質をもっているにしても、その鏡が曇っていたり、歪んでいたりすることもあり得る。もしそれが曇っているとすれば、或いは歪んでいるとすれば、そしてその歪みが個人々々で違っているとすれば、真理に達することはできない。そこで模写説においても、我々の心の性質を吟味することが必要になってくる。事実、ロックやヒュームは人間精神の本性について研究したのであって、かような批判的研究のために、認識論は彼等に始まるともいわれるのである。これに対し、我々の心の能力を吟味しないで、我々の心は無制限に認識し得るものと考えるのは、独断論と見られている。
 ところで我々の心は鏡の如きものに比することができぬ。我々の心は自覚的であるが、鏡はそうではない。我々の心は自己反省的である。しかるに鏡は、そこに映る影が果して物を正しく写しているかどうか、反省することがない。鏡が単に受動的或いは受容的であるに反し、認識の主体は能動的でなければならぬ。知ることは選択することである。認識は模写であるとしても、与えられた一切のものを模写することは不可能であり、たとい可能であるとしても無意味であろう。認識するとは、与えられたもののうち、本質的なものと非本質的なものとを区別し、選択することであって、これはすでに主体の能動性に属している。認識は模写であるという場合、物が我々に対して自己の本質的なものをつねに直接に現わしているということがなければならぬ。しかるにその保証は存在するであろうか。もし現象と本質とが直接に同じであるとすれば、一切の科学は不要であろう。認識するとはむしろ、我々の心が物の与えられた表象に働きかけ、これによって物の本質を顕わにするということでなければならない。言い
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