哲学入門
三木清
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)喚《よ》び起す
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)コペルニクス的転※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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序
哲学に入る門は到る処にある。諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。ここに示されたのは哲学に入る多くの門の一つに過ぎぬ。しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。この書はその一つの案内であろうとするものである。
哲学入門は哲学概論ではない。従ってそれは世に行われる概論書の如く哲学史上に現われた種々の説を分類し系統立てることを目的とするものでなく、或いはまた自己の哲学体系を要約して叙述することを目的とするものでもない。しかし哲学は学として、特に究極の原理に関する学として、統一のあるものでなければならぬ故に、この入門書にもまた或る統一、少くとも或る究極的なものに対する指示がなければならぬ。かようなものとしてここで予想されているのは、私の理解する限りの西田哲学であるということができる。もとより西田哲学の解説を直接の目的とするのでないこの書において、私が自由に語った言葉は、すべて私自身のものとして私の責任におけるものである。
すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚《よ》び起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。この書が現実についての諸君の考え方に何等かの示唆を与えることができるならば、幸である。
本書の出版にあたって岩波書店小林勇、小林龍介両君並びに三秀舎島誠君に多大の世話になったことを記して、感謝の意を表する。
一九四〇年三月
[#地から3字上げ]三木清
[#改ページ]
序論
一 出発点
哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである。
哲学が現実から出立するということは、何か現実というものを彼方に置いて、それに就《つ》いて研究するということではない。現実は我々に対してあるというよりも、その中に我々があるのである。我々はそこに生れ、そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる、そこが現実である。我々に対してあるものは哲学の言葉で対象と呼ばれている。現実は対象であるよりもむしろ我々がそこに立っている足場であり、基底である。或いは一層正確にいうと、現実が対象としてでなく基底として問題になってくるというのが哲学に固有なことである。科学は現実を対象的に考察する。しかるに現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる。哲学は現実に就《つ》いて考えるのでなく、現実の中から考えるのである。現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実にほかならぬ。対象として考える場合、現実は哲学の唯一の出発点であり得ないにしても、場所として考える場合、現実以外に哲学の出発点はないのである。
哲学はしばしば無前提の学と称せられている。しかるにそれが現実から出立するというとき、現実というものが前提されるといわれるであろう。けれど哲学にしても空無から始めることはできぬ。いわゆる無前提とは前提がないということでなく、最も必然的な前提に立つということでなければならぬ。現実は任意の前提でなく、いかにしても逃れ得ない前提である。現実から遊離した哲学も、その遊離することにおいてなお現実に制約されているのである。現実に出発点を取るということは、哲学の一つの立場をあらかじめ取るということではない。それを立場というならば、それは哲学における唯一の立場である。対象としてでなく、基底として、場所として、現実はかような意味をもっている。しかしながら、かように必然的なものが単に必然的なものに止まる限り哲学はないであろう。哲学は基底の危機から生れるのであって、そのとき必然的なものの必然性は揺り動かされ、ひとつの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現われるのである。かようにして自己の前提であるものをみずから意識し反省してゆくことが、哲学の無前提性といわれるものの意味でなければならぬ。ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。哲学は現実から出立してどこか他の処へ行くのでなく、つねに現実へ還ってくる。その際、必然性は可能性の否定的媒介を通じて真の現実性に達するのであって、哲学的に自覚された現実性は必然性と可能性との統一である。
哲学的探求の初めにおいて現実はもとより全く知られていないのではない。全く知られていないものは問題になることもできぬ、問題になるというには既に何等か知られているのでなければならぬ。しかしそこにはまた何か知られていないものがあるのでなければならぬ、全く知られているものには問題はない筈である。かようにして知っていると共に知っていないところから探求は始まるのである。哲学者は全知者と無知者との中間者である、とプラトンはいった。全く知らない者は哲学しないであろう、全く知っている者も哲学しないであろう、哲学は無知と全知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲學はないのである。
哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。
二 人間と環境
ところで現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。
人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。[#「作るのである。」は底本では「作るのである」]
人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、――これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない、人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。もとより我々は単に環境から作用されるのではない。逆に我々は環境に作用するのである。環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。しかし自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育てあげる力である。一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。
人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこに[#「そこに」に傍点]あるものである。そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。しかし次に現実的なものとは働くものでなければならぬ。働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。働くということは関係に立つということである。現実的なものはすぐれた意味においてある[#「ある」に傍点]といわれるのであるが、「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。ある[#「ある」に傍点]とは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。人間は世界の中にいて、そこにある他の無数の多くのものと関係に立っている。
人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。主観とは作用するもの、客観とはこれに対してあるもの即ち対象を意味する。主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれて
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