統一する形式は主観に属し、主観の綜合の形式である。認識は感覚に与えられた多様なものを主観が自己の形式によって統一するところに成立するのである。「我々が直観の多様なもののうちに綜合的統一を作り出したとき、我々は対象を認識する」、とカントはいっている。認識の対象は主観にとって与えられたものでなく、却って主観の構成するものである。例えば、この赤い鉛筆である、それは感覚に与えられたものを主観が実体或いは物(鉛筆)とその属性(赤い)という形式によって統一したものである。実体と属性というのは主観の綜合の形式であり、範疇と呼ばれている。また例えば、雨が降ったので地面が濡れたという現象の因果関係を認識する場合、我々は直観に与えられたものを原因(雨が降る)と結果(地面が濡れる)という形式によって統一したのである。因果概念も主観の統一の形式であり、範疇に属している。かようにして我々が対象において認識するものは我々が対象のうちへ移し入れたものである。我々の認識が対象と一致するのは、対象が主観の構成したものであるためである。しかるに認識は普遍妥当性をもたねばならぬ故に、主観の統一は普遍的で必然的な統一でなければならぬ。従って主観は個人的な我であり得ず、超個人的な我でなければならぬ。かような超個人的な主観をカントは意識一般と称した。認識は意識一般の綜合的統一によって生ずるのである。
 ところで意識一般というものは現実の人間の意識でなく、これに対しては単に形式的な意味をもつに過ぎぬといわれるであろう。それは心理的なものでなく、どこまでも論理的に考えらるべきものであり、かようにして意識一般とは表象の普遍的で必然的な結合の規則にほかならないと考えられる。しかしながら単に形式的なものは働くことができぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実的なものは世界のうちにあるのでなければならぬ。しかるにカントの主観は世界を構成するものであるが、世界は客観として主観に対しておかれ、従って主観そのものは世界のうちに入っていないことになる。現実の人間は世界のうちにいて、そこで働き、そこで考えるのであって、認識にしてもかくの如き人間の活動にほかならぬ。もとより人間にどこか超個人的なところがなければ知識は可能でないであろう。けれどもこの超個人性は単に形式的に理解さるべきでなく、却って現実の人間における主体的超越として現実的に理解されねばならぬ。人間が超越的であるというのは、世界の外にあるということではない、それは却って現実の世界が単に客観としての世界とは考えられないということを意味している。カントの考えた世界は客観としての世界に過ぎなかった。そのことは彼の問題としたのが主として自然科学的世界であって、歴史的・社会的実在でなかったということにも関係しているであろう。模写説に対する構成説の特色は、主観の能動性を強調するところにある。主観は対象を構成することによって対象を認識すると主張されるのである。その主観の能動性の強調は、近代科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれることとも繋っているであろう。そこでは自然は単に見られるものでなく、これに働きかけ、これを変化すべきものであった。
 いずれにしても認識に構成的なところがあるのは確かである。科学の方法である実験がまさにそのことを示している。しかしながら知識は単に主観的なものでなく、客観的なものとして、客観に制約されている。そこに直観の問題があるのであって、カントも知識の内容は直観から与えられると考えた。感覚は主観が物そのものから触発されて生じ、思惟が自発的であるに反して、直観は受容的である。認識の形式は主観に属するが、その内容においては客観に制約されるのである。「認識の形式は内容的客観的真理を認識のために形作るに決して十分でない」、とカントはいっている。かようにして知識が客観に制約される限り、知識には模写的意味がなければならぬ。カントが直観の形式(空間と時間)と思惟の形式即ち範疇とを区別したのもそのためである、と解釈することができる。彼の認識論において感覚の根源として物そのもの、いわゆる物自体が残されているのも偶然ではないであろう。尤《もっと》も、主観の能動性を絶対的に考える主観主義の立場にとっては、主観から独立に物自体の存在を許すことは不徹底であるといわねばならぬであろう。そこでフィヒテは、感覚は自我がその抵抗としてみずから定立するものと考えた。自我は本質的に実践的であり、実践は抵抗に打克ってゆくことであり、抵抗なくして自我は実践的であり得ない故に、自我は自己に対する抵抗として感覚を定立するというのである。また思惟の能動性のうちに論理主義の徹底を求めようとする新カント派のコーヘンは、思惟に与えられたものは課題として与えられたものであり、感覚も思惟の原理に従わねばならぬと考えた。しかしながらかようにして主観の能動性は徹底されるにしても、主観が万能となることによって存在は却って観念になってしまわねばならぬであろう。フィヒテの立場は人間を無限なものとし、神の立場におくことである。これに反し、カントが感性を受容的なものと考えたのは、人間の有限性を認めたことであるといえるであろう。人間が無限なものであるならば、我々の思惟はカントのいわゆる直観的悟性もしくは知的直観であることができ、認識の形式と共に内容をもみずから生産することができるであろう。フィヒテはかような立場に立った。しかるにカントに依ると、我々の悟性は原型的知性でなくて模像的知性であり、その内容をみずから生産することができぬ。カントが感性を受容的なものと考えたのは、認識に模写的意味を認めたことであるといえるが、一般に模写説は人間の有限性の理解の上に立っている。人間が有限なものであるとすれば、存在と知識との関係は模写的であると考えられるであろう。もとより人間は単に有限なものではない。人間が真理を認識し得るというのは単に有限なものではないからである。真理はむしろ人間をその有限性から解放するものである。人間は有限であると同時に無限である。
 すでにいったように、知識の客観性は、形式主義者の考える如く単に表象の普遍妥当的な結合を意味するに止まらないで、知識が客観に関係付けられていることを意味している。そこには客観の超越がなければならぬ。しかるに物が客観として超越的であるということは同時に我々が主体として超越的であるということである。超越性を離れて客観性はなく、また超越性を離れて主観性はない。客体の超越と主体の超越という二重の超越によって認識は可能になるのであり、それは同時に行為の可能になる条件である。意識の外に物があると考えるのは素樸な見方であるというのは、存在するとは意識に与えられることであると考える観念論の偏見に過ぎず、かような偏見は物と我々との関係を主として知識の立場から見てゆくことに関係している。行為の立場において主体といわれるのは単なる意識でなく、身体を具えた自己である。我々自身、いかに特殊なものであるにしても、世界における存在の一つにほかならない。意識の外に存在を認めるか否かが唯物論と観念論とを区別する基準であるとエンゲルスはいったが、かくの如く考える場合、唯物論は観念論と同じように知識の抽象的な立場に立っているのであって、自称する如く実践の立場に立っているとはいわれないであろう。行為の立場においては物は単に意識の外にあるのでなく、却って身体の外にあるのでなければならぬ。認識も世界における存在と存在との関係である。我々と物との基本的な関係は行為の関係であって、認識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ。
 認識は一方主観から規定されると共に他方客観から規定されている。それが主観から規定される限りにおいて認識は構成的であり、それが客観から規定される限りにおいて認識は模写的であるということができる。認識は模写的であると同時に構成的であり、模写と構成との統一である。かように対立するものの統一として認識は形成であるといわれるであろう。行為の立場において見るとき、認識もまたひとつの形成作用である。ここに形成説と名付けようと欲するものは、構成説と模写説との統一であり、主観主義と客観主義との統一である。それが何を意味するかが、次に確かめられねばならぬ。

      三 経験的と先験的

 すべての知識が経験に始まるということは明かである。そこで我々は経験の問題に戻って考えてみよう。知識はすべて経験から来るという説は経験論と呼ばれている。ところで前に述べた如く、経験論の哲学は経験を主観的なもの、心理的なものにしてしまった。経験は主体に関係付けられて経験といわれるのであるが、その主体が心或いは意識と考えられたのである。経験するとは意識に与えられるということであった。しかし経験論の哲学はもと、経験を重んずる近代科学の影響のもとに興ったのであって、経験において客観的なもの、実証的なものを見るのでなければならぬ。かようにしてそこでは感覚とか印象とかが重んぜられるのがつねである。経験論に対する合理論においてはこれに反し知識の源泉が理性に求められる。経験論者ロックに依ると、我々の心は白紙の如きものであり、一切の観念は経験から来るのであって、我々の知識はただそのような観念に関係し得るのみである。肯定判断においては一致せるものとして、否定判断においては一致せざるものとして、相互に関係させられるものは、ただ我々の観念であり得るのみである。その一致もしくは不一致の把捉が知識であるが、この把捉は判断であり、すべての判断は言葉において命題として表わされる。かような命題の真理については、その言葉がそこに思念された観念相互の間にあるのと同じ肯定的もしくは否定的関係にあるとき、真であるということができる。しかしそれは名目的真理に過ぎず、その判断の実質的な真理性は何処にあるかと問われるであろう。この問に対しては、我々の観念と我々の心の外に存在する物とが、言葉と観念との間にあるのと同じ関係におかれ、観念の結合は、観念によって現わされた物の結合と一致しているとき、真であると答えられるであろう。ロックは観念は「物の記号或いは代表」と考えた。このいわゆる代表説は心の外に物の存在を前提する模写説の一変形である。しかしながら、もしも観念が心に直接に現われる唯一の対象であるとしたならば、いかにして我々は我々の観念とその原物とを比較し、かくして我々の観念と物の実際との一致を確かめ得るであろうか。「心は知覚以外の何物をも自己に現前するものとして有せず、そして恐らくはそれと物との結び付きの何等の経験にも達し得ない」、とヒュームはいっている。実際、もしも物があるということが経験されることであり、経験されるということが意識に与えられることであるとすれば、存在は観念のほかの何物でもないということになるであろう。バークリの有名な言葉に依ると、「存在するとは知覚されることである」。桜の実はその色、香、味、等の表象複合に過ぎず、その存在は知覚されるということと同じである。「実に物と感覚とは同一のものである」、とさえバークリはいっている。しかるに知覚するのは私の心であるとすれば、この観念論即ち存在を観念と見る立場は、ひとり我のみが存在し、他のものはすべて我の観念に過ぎぬという独我論に終らねばならぬ。バークリがなお自我という心的実体を認めたのに対して、ヒュームは、一歩を進め、バークリが桜の実についていったことは自我についてもいわれ得ると考えた。我々の内的知覚も自我の実体について教えるものでなく、ただその活動、状態、属性を示すのみであり、これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も残らない、自我もまた「観念の束」に過ぎぬ。しかるにかようにして一切が観念であるか観念の複合であるとすれば、この純粋な内在論にとって知識の客観性の基準はないということになるであろう。
 経験論は知識の普遍性と必然性を基礎付けることができな
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