ーなしには実験することができぬ。一定の思想をもって現象に問いかけ、現象をしてこの問に答えさせることが実験である。そして与えられる答について論理的に思考し、これによって現象を合理的に把握してゆく。その場合、答は必ずしも最初の思想と一致しないで、むしろこれを否定することもあろう。そのときはそれに応じて我々の思想を変え、新しい思想をもって更に現象に問いかける。かようにして我々と現象との間にいわば問答が行われる。問はあらかじめ論理的に考えられた思想をもって臨むことである故に、合理性の側を現わし、これに対して答はいつでもその思想を否定し得るものとして実証性の側を現わすとすれば、合理性と実証性とは対立し、その間に対話が行われる。そのとき合理性と実証性とは弁証法的関係にあるといわれるのである。弁証法という語はもと対話を意味するギリシア語の「ディアレゲスタイ」に由来している。対話においては互に他を否定し得る独立な者が対立し、問答を通じて一致した思想に達すると考えられるが、そのように弁証法は対立するものの一致を意味している。科学性は合理性と実証性との弁証法的統一である。その合理性は実証性を離れてなく、その実証性は合理性を離れてない。科学的精神は合理的精神であると同時に実証的精神である。合理性と実証性とは対立するものである故に、科学的研究は一つの過程として運動するのである。新たに発見された事実を説明する法則を求めるために、或いは特殊的法則を包括する一般的法則を求めるために、研究が行われる。特殊的なものは科学を進歩させる力となっている。特殊的なものと一般的なものとの対立によって科学は発達する、或いは、非合理的なものを否定的媒介とすることによって科学はその合理性において発展するのである。かように科学が弁証法的構造をもっているということは、現実の世界が弁証法的なものであるということに相応している。合理的であることは演繹的であることであり、実証的であることは帰納的であることであると考えられ、科学は演繹的であると共に帰納的であり、帰納的であると共に演繹的である。演繹は一から多へであり、帰納は多から一へである。現実の世界は多にして一、一にして多であり、一即多、多即一という弁証法的なものであるところに、科学の弁証法的構造の根柢があるといわねばならぬ。
 ところで科学が行為の立場に立つことは、客観的な知識に達するために必要なことであった。単に見るのでなく、働くことによって、我々は真に客観的に見ることができるのである。しかし科学は直接に物を作るのでなく、物を作るのは技術である。技術的に作られたものはすべて形をもっている。技術においては、先ず客観的な法則の知識、次に主観的な目的があり、両者の統一が求められるが、この統一は物を変化して新しい形を作ることにおいて実現される。科学の理念が法則であるに対して、技術の理念は形である。形は主観的・客観的なものであり、また抽象的一般的なものでなく、一般的なものと特殊的なものとの統一として具体的なものである。科学的精神が用心深く、試験的で、自由を尚び、つねに批判的で、進取的であるに反し、技術的精神には何か固定的で保守的なところがある。技術は習慣的になり、習慣的になることによってその意味を発揮する。言い換えると、技術は制度的になるという性質をそれ自身においてもっている。技術の存在の仕方には常識の存在の仕方と類似するところがあるであろう。科学は技術化されるに応じて常識のうちに入ってゆく。科学において自然と対立した人間精神は、形のある独立なものを作る技術を通じて自然に、歴史的自然に、還るともいわれるであろう。人間の技術は自然の技術を継続する。科学と技術とは、科学も行為的であり技術も知識的であるにしても、なお理論と実践として対立している。しかもすでに論じたように、両者は抽象的に分離され得るものでなく、却って一つに結び付いている。理論の発達によって実践は発達し、実践の発達によって理論は発達する。そこに対立するものの統一、理論と実践との弁証法的統一が存在する。そしてそれは、科学と技術においてのみでなく、すべての文化と行為において見られる関係である。

      七 哲学

 科学と哲学との区別は、普通に次の如く理解されている。先ず科学は原因の知識であった。哲学も科学性をもたねばならぬ以上、原因或いは理由の知識でなければならぬ。ところで科学は物の原因を研究するにしても、自己自身の拠って立つ根拠は反省することがない。それは物の因果関係を研究するか、およそ因果性とは何かということについては反省しないのである。因果性とか空間とか時間とかという如きものは、科学は前提するに止まっている。かようにして科学の前提となっているものを究め、その根拠を明かにするのが哲学である。即ち哲学は科学批判に従事するのである。批判というのはそのものの拠って立つ根拠を明かにし、その基礎を置くことである。しかしながら、科学の根拠を明かにすることはそれ自身科学の仕事に属するといわれるかも知れない。科学者は自己の研究の過程において自己の原理であるものについておのずから反省し始めるであろう。尤《もっと》も、その場合、科学者はもはや科学者としてでなく哲学者として研究しているのであると考えられる。けれども何故に、科学の根拠について研究することが科学者の仕事に属しないのであろうか。それは科学的研究の発展にほかならないといわれるであろう。かようにして、科学の根拠を明かにすることが哲学の仕事であるとすれば、それには何か科学の科学としての立場においては不可能であるというものがあるのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって肝要なのである。
 次に科学は存在を種々の領域に分ってそれぞれの領域について研究する。科学は存在を全体として考察するのでなく、その特殊部門を研究する。物理学は物理現象を取扱い、生物学は生命現象を取扱うというように、科学は分科的であり、専門的である。それが特殊科学とか個別科学とかといわれるのもそのためである。しかるに哲学は全体の学である。それは存在を存在として全体的に考察するのである。しかしながら、科学もつねに全体を目差しているといわれるかも知れない。科学者も世界を包括的に統一的に説明しようとしている、彼等も世界についての全体的な観念、即ち世界像というものを与えようとしている。物理学者は物理的世界像を、生物学者は生物学的世界像を形作ろうとしている。生命現象は物理的に説明されず、更に心理現象は生物学的に説明されないとしても、それら物理的、生物学的、心理的現象を一定の関係において統一的に説明し得る科学的世界像を求むべく努力されている。従って哲学が全体の学であるということは、ヴントなどの考えたように、単に諸科学の綜合という意味であることができぬ。諸科学の綜合はむしろ科学自身の理念に属している。それ故に哲学が全体の学であるとすれば、存在の全体というものには科学の科学としての立場においては遂に捉えられないものがあることを意味するのでなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって大切なのである。
 第三に科学は価値の問題について中立的である。それはただ記述し或いは説明することに努め、価値判断はそれの外にある。それは感情的な主観的な評価を排して、物を飽くまでも知的に客観的に把握しようとする。科学は単に記述するのみで説明するものでないというのは、言い過ぎであるにしても、それは決して目的の言葉において説明するものではない。「何故に」ということが、もし物の意味ないし目的を問うことであるとすれば、科学は「何故に」ということに答えるものでなく、単に「いかに」ということを明かにするのである。科学の示す新しい事実、新しい観念、環境支配の新しい可能性をもって何を始めるかは、それを用いる人間の意欲に依存し、そしてこれは彼のもっている価値の尺度に依存する。行為の目的に対して科学は手段或いは道具を提供するに過ぎぬ。しかるに哲学はまさに価値とその秩序に関わっている。哲学の問題は価値の問題であるといわれるのである。しかしながら、科学も価値に無関心であるのではなかろう。それは何よりも真理に深く関心している。真理は価値であり、従って知識もそれ自身のうちに価値の問題を含んでいる。また価値の秩序をいかに考えるかということは、知識に依存するところが多いのである。理論と実践、観念と行動を全く分離することはできぬ。科学が価値判断を排するのは主観的なものの混入を防ぐためであるが、哲学もまた、価値を問題にするにしても、単に主観的であることは許されない。もちろん、純粋に客観的な立場においては評価はなく、物の意味も理解されないであろう。けれども意味とか目的とか価値とかも、単に主観的なものであり得ず、そしてそれが現象のうちに客観的に現われる限り、価値も科学の対象となるのである。道徳学、芸術学、宗教学等の存在はそのことを示している。従って哲学が価値を問題にするという場合、その取扱いは科学におけるそれとは異り、しかも価値そのものの本質が哲学的な見方を要求しており、更にこれが単に主観的な見方でないということがなければならぬ。そしてその点の認識が哲学にとって重要なのである。
 それでは、知識、存在、価値等、すべての問題について、科学と哲学とはその見方においていかに相違するのであろうか。科学的な見方のほかに、およそ何故に哲学的な見方が要求されるのであろうか。
 科学は物を客観的に、対象的に見てゆく。科学の求めるのは客観的な知識或いは対象的な認識である。しかるに物を知るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。尤《もっと》も、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。
 主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対して知るもの、知る作用が主体のものである。それは意識であり、主体とは意識にほかならぬといわれるであろう。しかしさきに論じたように、知識の主体も行為的である。行為の主体は単なる意識でなく却って存在である。存在といっても、それはもとより客観的なものでなく、客観的にどこまでも捉えることのできぬところがあるから主体といわれるのである。その際、存在が先ずあって、それについて作用が考えられるのではない。かように考えることはすでに客観的な見方に属している。そこではむしろ作用と存在とが一つである、存在があって作用があるというのでなく、作用があって存在があるというのでもない。意識の起原にしても行為の立場から理解され得るのである。主体が環境の抵抗に逢って、これを支配し自由になるに従って、意識は発達する、意識の発達には、環境の刺戟に対する主体の反応の自由が現われ、主体の運動が単に反射的でなく自発的或いは自律的であることが必要な条件である。ベルグソンのいう如く、意識の範囲は生命の自由な活動の範囲と一致している。主体的なものは行為的なものである。主体的立場とは行為の立場にほかならない。そこで我々は行為について一
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