層深く考えてみなければならぬ。
 行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。
 ところで行為が現在から起るというところに行為の超越性が認められるであろう。行為の超越性というのは、それが過去現在未来を超えた全く異る秩序の現在から起ることを意味している。人間の運動は特に行為といわれ、かようなものとして人間は超越的である。人間の主体性はその存在の超越性を離れては考えられない。超越は人間的存在の根拠であり、超越があるによって人間は人間であるのである。超越は先ず人間における客体から主体への超越である。これによって我々は単なる客体でなく主体である。しかるに人間における主体への超越は同時に人間に対する客体の超越の根拠である。我々の環境にあるすべてのものは我々に対して超越的である。言い換えると、それは我々の全く外にあり、我々はそれに対していわば距離の関係に立っている。我々は自己に対してさえ距離の関係に立ち、かようにして自己をも客観的に捉え得る。我々に対して客体が超越的である故に、我々はそれを客観的に認識し得るのである。物に遠いことが却って物を近く捉え得る所以である。客体の超越は、我々が主体として超越的であることによって可能になる。我々における主体への超越は同時に我々に対する客体の超越であり、超越はかように二重であって一つである。人間の存在は客体を全体として超越している故に、存在するものの一切を全体として把握することも可能になる。我々が主体として超越的でなければ行為はなく、また対象が客体として超越的でなければ行為はないであろう。行為は二重の超越によって、しかもそれが一つであるによって、可能になるのである。
 さて主体は単なる意識を意味しないが、しかし意識において主体は主体的になるのである。主体の主体性即ち行為の自発性と意識の発達とは伴っている。主体が主体的に表現される所は意識である。行為はもとより客観的に表現される、けれどもそれが主体的に表現される所は意識を措いてないのである。自己意識或いは自覚によって、主体は真に主体的になるのである。デカルトが「私は考える、故に私は在る」といった如く、我々は自己の存在を意識し、意識する自己を意識することができる。尤《もっと》も自覚はデカルトの考えた如く単に知的な事実であるのではない。「我々は存在し且つ存在することを知る、そしてこの存在と知とを愛する」とアウグスティヌスがいった如く、我々の自覚存在には感情が伴うのがつねである。人間は「考える蘆」であるというパスカルの言葉は、情意的自覚を現わしている。デカルトの「私は考える、故に私は思惟する物もしくは実体である」ということに対し、メーヌ・ドゥ・ビランは、「私は行動する、私は意欲する、即ち私は私において行動を意識する、故に私は原因であることが知られる、故に私は原因もしくは力として在る、即ち現実的に存在する」ということを原理とした。彼はこれを内的感覚の原始的事実と称した。自己意識は主体の自発性の意識である。「意欲は精神の単純な、純粋な、瞬間的な作用である、それにおいて、もしくはそれによって、この知的にして能動的な力は外部に現われ、且つ自己自身に内面的に現われる」、とまたメーヌ・ドゥ・ビランが記しているように、行為は外部に表現されると共に内部に表現される。かように二重の表現を有するということ、単に外に現われるのみでなく同時に自己自身に内面的に現われるということが、主体の特徴である。人間は外的人間であると共に内的人間である。行為は外に経験されるのみでなく内に経験される。経験を外的経験とのみ考えたところに、いわゆる経験論の制限があった。外的感覚のほかに、メーヌ・ドゥ・ビランのいったような内的感覚がある。人間は自覚的存在である。自覚的なものであって真の主体であり、自覚によって真に主体の主体性は成立するのである。
 この自覚の意味は一層厳密に考えられねばならぬ。自覚というのは自己が自己を知ること、自己が自己を意識することである。しかしながら自覚の意味は単に自己が自己を意識するということに尽きるのではない。自己は自己を振返って見ることができ、この振返って見る自己を更に振返って見ることができる。かように自己は無限に自己を反省し得るというのは重要な事実であるけれども、もしそれが単に意識の内部において自己が自己に関係付けられることに過ぎないとすれば、それは純粋に内在的なことになってしまう。もしそれが純粋に内在的なことであるとすれば、何故にそれが、少くとも行為にとって、重要な関係をもっているのか、理解し難いであろう。自己が自己を知るという自覚の意味は、自己が自己を超えるということでなければならぬ。自己が自己を超えるというところに自己が自己を知るということもあり得る。自覚の事実は人間存存の超越性によって可能になるのであり、そこに真の主体性が成立するのである。自覚というのは単に自己が自己を知ることでなく、自己が自己を知ることに即して自己の根拠であるものを知ることである。もし自覚が単なる自己意識に過ぎないとすれば、その内容は単に自己であり、またそれはただ意識に関することと考えられ、かようにして自覚を基礎とする哲学は、従来しばしばそうであったように、内在論或いは意識哲学に終ることになる。それは自覚の事実がこれまで主として知識とその主観の問題の見地から見られたことにも関聯している。自覚の事実も行為の立場において捉えられねばならぬ。自覚の内容は自己であると同時に他者であり、そして自覚は単に意識に関わるものでなく、存在に関わるものである。単なる自己反省でなく、自己への反省が同時に他者への関係付けであるというところに、自覚の本質がある。他者とは自己の存在の根拠であるものを指している。伝統的な哲学の考えた如く、現実的存在においてはその存在と存在の根拠とが区別され、自己の存在の根拠が自己の存在に超越的であるということが現実的存在の根本的規定であるとすれば、人間に固有なものといわれる自覚は、自己の存在の根拠の意識であるのでなければならぬ。単なる自己意識でなく、自己意識が同時に根拠の意識であるというところに自覚の本来の意味があり、その根拠の意識によって自己意識も成立するのである。自覚は超越によって可能になるのであって、主体的とは、単に主観的ということでなく、却って自己の存在の根拠を自覚し、これと内面的な関係を含むということである。自己意識としての個人的自覚は人格の認識根拠となるにしても、その存在根拠であることはできぬ。しかも我の存在の根拠であるものは、同時に汝の存在の根拠であることなしに、我の存在の根拠であることもできない、我は汝に対して初めて我であるから。我々は我々の存在の根拠であるものから社会的に限定されてくるのである。かような存在の根拠が最も深い意味における世界にほかならない。主体的立場というのは個人的立場でなく、社会的立場であり、世界的立場を意味している。この世界は客観としての世界ではない。客観としての世界においては、主体である人間はその場所をもたない。見られた自己はその中に入っているにしても、見る自己はそれに対して何処か外にあると考えられねばならぬ。しかしながら、「世界は深い」とニーチェもいった如く、世界は主体である人間を内に包み、これを超えて深いのである。主体がそれにおいてある世界即ち絶対的場所は、どこまでも主体的なものでなければならぬ。それは主体である人間がそれに対しては客体と考えられるような主体である。それは「既に」そこにある世界でなく、却っていわゆる世界がそれにおいてある世界であり、真の現在である。哲学は対象的認識でなくて場所的自覚である。人間は世界から作られる、世界は創造的世界である。創造とは独立なものが作られるということである。人間は作られたものでありながら、独立なものとして、みずから作ってゆく。人間が作るのは、みずからも創造的なものとして、世界が世界を作るのに参加することである。人間は形成的世界の形成的要素である。我々が作るのは、世界が世界を作ることにおいて、そのうちに、作ることである。それ故に我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味をもっている。行為は同時に生成の意味をもっている。行為が出来事の意味をもっているのは、これに依るのである。人間の行為は世界における出来事であり、かようなものとして歴史的である。歴史とはもと出来事を意味している。主体的立場は歴史的立場であり、世界史的立場でなければならぬ。
 かようにして哲学が主体的立場に立つというのは、要するに、現実の立場に立つということである。真に現実といわるべきものは歴史的現実である。人間は歴史的世界における歴史的物にほかならない。我々の一切の行為は、経済的行為の如きものであろうと、芸術的行為の如きものであろうと、或いはまた科学的研究の行為の如きものであろうと、すべて歴史的世界においてあるのである。主体的立場は行為の立場であるといっても、主知主義を排して主意主義を取るというが如きことを意味するのではない。行為の問題は、主観主義の哲学において考えられる如く、単に意志の問題ではない。いかなる物であろうと、物を作るということが、行為の根本的概念である。人間のあらゆる行為は制作の意味をもっている。それはすべて技術的なものであり、知識的でなければならぬ。主体的立場は形成的人間の立場であるが、人間は歴史的世界において形成されて形成するのである。歴史とは出来事であり、それは行為が同時に生成であることを意味している。従って行為の立場といっても、主観主義的な、いはゆる行動主義の如きものではない。我々の行為はつねに歴史的に限定されている、言い換えると、それは主観的・客観的なものである。主体的立場というのは単なる主体の立場でなく、却って主体を超えた主体の立場である。人間は「超越的人間」である、超越によって人間は人間であり、人間の一切の作用は可能になる。けれどもそれはいわゆる超越的意識或いは先験的意識と混同さるべきでなく、人間はその全体の存在において超越的であるのである。しかも超越的とは、世界の外にあるというこ
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