社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。我々の生活のあらゆる方面においてこの種の常識がある。この場合、常識の光と科学のそれとは根本において同じであるが、常識としてはそれが直接的であって反省されていないという差異がある。かようにして一般に常識といわれるものには固有の意味における常識と良識とが含まれ、両者はしばしば対立して現われる。余りに常識的であることは良識に反し、また余りに良識的であることは常識に反する。そこに既にいった二つの社会に同時に属するという人間の根本的性質が認められる。現実の社会は閉じたものであると同時に開いたものであり、開いたものであると同時に閉じたものである、その理解が我々の真の常識、また真の良識でなければならぬ。
六 科学
常識はそれ自身の効用をもっている。常識なしには社会生活は不可能である。常識に対して批判的精神が現われるが、それと共に人間は不幸になり、再び常識が作られ、これによって人間は生活するようになる。けれども常識の長所は同時にその制限である。そこに科学が常識を超えるものとして要求されるのである。
先ず常識が実定的であるに対して科学は批判的である。実定的な常識が固定的な傾向をもっているに反して、批判的な科学は進取的な傾向をもっている。しかし科学が批判的であるということは更に積極的な意味において理解されねばならぬ。常識はその理由を問うことなく、自明のものとして通用する、それは単なる断言であって探求ではない。常識に頼ることは安定を求めることである。それには懐疑がないが、科学には絶えず新たな懐疑がある。懐疑があって進歩があるのである。探求というのは問を徹底することであり、特に理由を問うことである。単に「斯くある」ということを知るのみでなく、「何故に斯くあるか」ということを知るところに真の知識がある。物を批判的に知るというのはその理由を知ることでなければならぬ。科学は理由或いは原因の知識である。
次に常識が閉じた社会においてあるに対して科学は開いた社会においてある。科学はその本性上人類的普遍的である。科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。そしてそれは個人の自由な精神の活動に俟つのである。科学は、歴史の示すように、民族のうちにおいて個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現われたところで生れた。それは批判的精神の出現を意味している。個人の自由はさしあたり主観的な肆意《しい》として現われるであろう。科学はもちろん個人の肆意《しい》に基くのでなく、客観的であることを求めている。客観的とは普遍妥当的ということである。そこに個人の主観的な自由は否定されて、自己のうちにおける普遍的なもの、超個人的なもの、理性と呼ばれるものの自覚がなければならぬ。理性の自覚に基いて人間は真に自由になる。単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に止まる限り、客観的知識に達することはできぬ。もちろん現実の人間は単に人類的でなく、民族的である。しかしその立場が個人の自覚に即して一旦否定されるのでなければ科学的になることはできぬ。人類的立場が直接的であると考えるのは正しくない、それは否定を経て現われてくるのである。常識がなお特殊的な知識であるに反し、科学は一般的なものについての知識、法則の知識である。
第三に常識は行為的或いは実践的立場における知識であった。しかるに科学は理論的、従って観想的であることを特徴としている。科学ももと実践的要求から生れたものであるにしても、一旦これを否定して飽くまでも理論的になるところに科学は成立する。そこには生活における有用性を離れて、知識のために知識を求め、真理のために真理を究める純粋な理論的態度がなければならぬ。ただ実用の見地或いは政策的立場に立つ限り、科学の求める客観的知識に達し難い。科学は自由な研究を必要とするのであって、常識において直接に結び付いている行為の立場は、科学においては一旦否定的に分離されねばならぬ。科学は何よりも理論的知識、即ち論理的に組織された一般的な知識である。
このように科学と常識とは異っている。もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。かくておよそ常識が科学的になるところに文化の進歩がある。けれども常識がいかに科学的になるにしても、常識と科学との間には性質上の差異がある。なぜなら両者の差異は単に知識の内容に関するのでなく、却って知識の在り方に関するのである。同じ内容の知識でも常識と科学とでは在り方が違っている。常識には単に「前科学的」といい得ぬ独自の性質と機能とがある。それをただ科学の前段階、低い程度の科学とのみ見ることは、いわゆる実証哲学もしくは科学主義の抽象的な見方に属している。科学は科学としてよりむしろ技術を通じて常識化されるといわれるであろう。科学は技術化されて日常生活のうちに入るに従って常識のうちに入ってゆく。電燈や電車が作られて電気は常識となり、電気について知らないのは非常識とされるようになる。常識はもと行為の立場における知識であり、科学も技術において現実に行為の立場に移されるからである。常識と科学とが在り方を異にするということは、科学の常識化が不可能であるとか無意味であるとかということではない。科学が常識化されることは、常識の進歩のためにも科学の発達のためにも大切であるが、ただそれには特殊な方法が必要である。科学が常識と異るからといって科学を尊重しないのは非常識であり、他方常識を科学によって残りなく置き換え得ると考えるのも非科学的である。
科学はしばしば抽象的であるといって非難されている。それは哲学に対してのみでなく、常識に比してすでに抽象的であるといわれるであろう。しかしながら抽象的なものの重要な意味を理解することが肝要である。抽象的なものに対する情熱なしにはおよそ文化の発達はない。直接に具体的なものは真に具体的でなく、却ってそれ自身抽象的である。真に具体的なものは抽象的なものに媒介されたものでなければならぬ。常識も科学に媒介されて具体的になることができる。科学が普遍的な立場に立って法則を求めるということは、それによって却って真に個人にも民族にも仕えることになるのである。また科学が一旦行為の立場を否定して純粋に理論的になるということは、それによって却って真に行為と結び付くことになるのである。個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。科学が明かにする客観的真理に従うことによって、我々の行為は有意味にまた有効に行われることができる。科学は技術の基礎であり、科学の発達が技術の発達を可能にする。単に応用のみを目的とする場合、科学の発達はなく、従って技術の発達も不可能であろう。
しかしながら、科学が一旦行為の立場を否定するからといって、科学と行為とを全く分離して考えるという誤謬に陥ってはならぬ。科学も元来人間の実践的或いは技術的要求から生れたものである。科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれている。しかるに「自然は、それに服従するのでなければ征服されない」。科学は自然を支配するために自然についての客観的知識を求めるのであって、それが自己を行為の立場から分離するのも、主観的なものの混入を避けてひたすら客観的な知識に達するためである。しかしながら他方科学は、その客観的知識に達するために、却ってむしろそれ自身の仕方において行為的であることを必要とするのである。言い換えると、科学もそれ自身技術的で操作的である。技術にとって科学が基礎であるように、科学にとって技術は基礎であり、技術の発達が科学の発達を可能にした。望遠鏡や顕微鏡の発明なしには近代科学の発達は考えられないであろう。科学ももと環境においてある人間の生活の中から生れたものである、それは構成することによって適応する知性の産物である。それはすでに技術的な我々の経験の発展にほかならない。常識は経験のそれ自身の仕方における組織であったが、科学も同じく経験の他の仕方における組織である。常識においては経験は自然的に、無意識的に組織されるに反して、科学においては経験は意識的に、方法的に組織される。方法的に規制された経験が実験と呼ばれるものである。実験が科学の重要な方法であるということは、科学もその根柢において技術的であることを示している。科学は思惟の技術を必要とするのみでなく、更にすぐれた意味において技術的である。実験は行為的に知ることであり、その主体は操作的主体として行為的である、単に見るものでなく、働くことによって見るものである。知識の主体にしても、いわゆる主観の如きものでなく、現実の人間の存在である。知るということも、存在と存在との関係である。単なる意識に対してでなく、存在に対して初めて、存在は、その秘密を明かにするのである。経験や常識においては知識と行為が直接的に結び付いているに反して、科学の立場においてはそれが一旦引き離され、他方同時に自覚的に、方法的に結び付けられるのである。
科学が経験的ないし実験的であるということは、実証的であることを意味している。科学は実証的でなければならず、実証性は科学の欠くことのできぬ要素である。しかるに科学が実証的でなければならぬということは、現実のうちに我々が純粋に合理的に演繹することのできぬものが存在するということを前提している。合理的に思惟されるものは一般的なものである。しかるに現実のうちには特殊的なもの、非合理的なものが存在している。そこに非合理的なものが存在するところから、科学は実証的であることを要求されるのである。けれども現実が全く非合理的であるとすれば、実験することも無意味でなければならぬ。実験は現実が合理的であるということを予想し、その合理性の発見を目的としている。しかし科学の求めるものが合理的なもの、一般的なもの、法則的なものであるからといって、それが個々のもの、特殊的なものを全く無視するかのように考えることは正しくない。科学も実は個物の独立性を認めることによって成立するのである。唯一つの例外があっても法則は否定され改変されねばならぬということは、個物の力を示している。かように個物の独立性を認めるところに、近代科学の特色とされる実証性がある。それ以前の合理主義の哲学即ち一切のものが純粋に合理的に演繹され得るとする思想に対して、近代科学が経験を重んずるのもそのためである。もとより現実のうちに合理的な統一が存しないならば、実証的であるということも無駄である。かようにして現実が合理的であると同時に非合理的であり、特殊的であると同時に一般的であるというところに、科学的研究は成立する。それは科学が合理性と実証性、或いは論理性と経験性から成るということを意味している。科学性は合理性と実証性という相反するものの統一である。
さきに述べたように、経験は単に受動的なものでなく、受動的であると同時に能動的であった。経験の発展として、科学における実証性と合理性は、その受動性と能動性に相応している。経験は試みることとしてそこに既に自律的な知性が参加している。経験における試みが手当り次第の偶然的なものであるに反して、実験における試みは計画的であり、あらかじめ一定の思想、一定のイデーをもって臨むのである。そのことは合理性に対する要求を示している。イデ
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