観的・客観的な過程であることを意味している。試みと過ちとは主体と客体とが相互に否定し合う関係であり、かような対立の統一として経験的知識は成立するのである。
しかし経験は行為に関するものとして、そこに行為の形が形成されてくるであろう。この形は技術的な形である。形は全体性であり、行為の形は行為が主体と環境との間における成全的活動であるところに生ずるのである。環境は主体に作用し逆に主体は環境に作用し、二つの作用が関係することの間における結合として行為は成全的活動であり、この結合は機械的でなく、創造的綜合である。しかも行為が形をもつということは、主体と環境との作用の間におけるこの結合が主体の側において、まさに行為そのものにおいて成全するところから生ずるのである。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、却って環境プラス主体に対して、言い換えると主体によって変えられた環境に対して反応するという意味において、その反応は循環反応と称せられる。行為は循環反応として自己創造的な斉合性をもっている。行為の自律性もそこに考えられねばならぬ。行為の形はその自律性の表現であり、もし行為が自律的でないならば、行為は形をもつことができぬ。しかし行為の自律性を環境から離れて単に主体から考えることは抽象的である。形は主観的なものと客観的なものとの統一である。主体と環境とは互に他を新たに作り、両者の関係も新たに作られ、行為の成全作用は創造的である。環境に対する主体の適応は発明的であって、行為の形も無意識的にせよ発明に属している。それは技術的な形として機能的意味をもっている。それは機能を組織したものであり、機能を表現するものである。
しかるに経験において行為の形が作られる場合、そこに習慣が作用するであろう。習慣は均衡の形式であり、主体と環境との間における持続的な適応として生ずる。行為が習慣的になることによって行為の形は作られる。習慣は発動機械の、行為の図式の構成である。我々の行為が習慣的になるのは、主体が身体的なものであって、自然から抽象された精神の如きものでないということに依るのである。習慣は「第二の自然」と呼ばれているが、それは機械的必然的なものではない。習慣も行為的なものであり、習慣を破ることができるものであって習慣を作ることができる。その自然のうちには自由が喰い入っており、しかしまたその自由のうちには自然が流れ込んでいる。経験から習慣が生じてくる。経験は試みと過ちによる適応であり、これは習慣形成の一つの主要な形式である。既にいった如く経験は未来との結合を含むが、それはまた過去との結合を含み、むしろこのために経験といわれるのである。経験は我々の積んでゆくものであり、積まれたものが経験である。そこから習慣が生ずるのである。習慣的になることは行為が自然的になること、惰性的になること、従って受動的になることであるが、同時に行為はその自発性において高まる。我々の行為が習慣的になることが全くないとしたならば、我々の生活はいかに不自由であろう。習慣は受動性であると同時に自発性である。習慣は有機的生命の受動性のうちに浸透してそこに樹てられる自発性の発展である。
ところで経験は働くことであると同時に知ることである。働くことによって我々は知るのである。経験は試みと過ちの過程において或る一般化と或る綜合とを行う。種々の知覚は記号となり、また統一にもたらされる。その際、習慣が作用する。習慣は知性のうちにも入っている。経験論の哲学もヒュームにおいて見られるように習慣に重要な意味を認めたけれども、その習慣論は観念聯合の機械的な説明に拠っている。それは意識の不変的な「要素」を考え、要素の機械的な結合から一切の心理現象を説明しようとした。しかるに習慣においては知覚の変化が認められる。我々が親しんだ環境では、物は、この環境に我々が初めて接した場合とは違って知覚される。行為に必要な知覚は練習の最初と最後とで違っている。習慣的になると無意識になるといわれるのも、厳密に考えると、知覚の変化が生ずることである。習慣の仕事は練習の前の階梯の一層容易で一層迅速な反覆に還元されるものではない、それはより高い統一を形成するのである。習慣において寄せ算と引き算の遊戯、成功した経験の増強と誤謬の消去を見る代りに、そこに再編成、新しい綜合、全体の機能の構成を見なければならぬ。習慣もまた創造的である。それは創造的行為と同じ根のものであり、人間的活動の基本的な構造に基いている。尤《もっと》も習慣は他方模倣的である、それは自己が自己を模倣するところから生ずる。習慣は創造的であると同時に模倣的である。経験は行為的に知ることであるが、人間と環境との適応が持続し、行為が習慣的になるに従って、知識も同じように習慣的になってくる。これによって知識も組織された形をとり、同時に或る自然的なものとなり、直接的なものとなるのである。
五 常識
経験の右の如き性質から、社会的に考えると、常識というものが出来てくる。常識は社会的経験の集積であって、我々の行為の多くは常識に従って行われている。常識は先ず行為的知識である。常識は実際的といわれるが、実際的とは経験的・行為的ということである。行為は環境における行為として技術的であり、常識は技術的知識であるのがつねである。実際的ということはまた日常的ということを意味し、常識は平生の生活に関わり、日常的ということがその特徴をなしている。常識は日常的・行為的知識である。そして次に常識は社会的な知識である。常識は個人的経験の結果でなく、社会的経験の結果である。個人にとってはそれはむしろ社会から与えられたものとして受取らるべきものである。この場合社会というのは何等か閉じたものの性質をもっているのがつねである。それは或る家族、或る部落、或る国というが如き、ベルグソンのいわゆる閉じた社会であって、人類というが如き開いた社会ではない。ベルグソンに依ると閉じた社会は諸習慣の体系と看做《みな》され得るものであるが、常識はかような社会において習慣的に行われる知識であり、常識そのものがまたかような社会の紐帯となっている。常識は閉じた社会に属するものである故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異っている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのがつねである。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。常識の通用性は局限されているが、しかしその社会に属する限り誰もそれをもつことを要求されている。第三に常識は何か直接的に自明なものと思われている。それがいかなる道筋を経て出来てきたものであるか、その根拠がいかなるものであるかを反省することなく、或る自明なものとして社会的に認められているのが常識のつねである。即ち常識は実定的なものである。常識のこの性質は、常識と科学的知識とを比較してみればわかる。科学的知識の性質は、それを問に対する答と考えると明瞭になる。問に対する答は、「然り」か「否」である、肯定か否定である。肯定は否定に対する肯定であり、否定は肯定に対する否定である。その肯定は否定によって媒介されたものでなければならぬ。科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。常識は実定的なものであり、或る慣習的なものとして直接的な知識である。そして社会における慣習が法的な強制的な性質をもっているように、常識もその社会に属する者に対して法的な強制的な性質をもっている。それは常識が特に行為的知識であることと関係しており、常識は個人に対する一つの社会的統制力として働く。非常識であることは、無知を意味するのみでなく、社会的に悪とも考えられるのである。更に常識は有機的な知識である。それは決してばらばらなものでなく、それ自身の仕方で組織されたそれ自身の斉合性をもっている。一定の社会において一つの常識は他の常識と衝突することなく、もし衝突するものであれば常識とはいわれない。常識的な行為はその社会の全体との関係において不都合の起らないのが普通である。一つの常識はつねに他の常識と結び付き、これを予想している。常識のかような斉合性は科学の求める論理的斉合性とは性質を異にし、その際その常識の根拠、一つの常識と他の常識との論理的関係は反省されていない。常識の斉合性は慣習のもっている斉合性と同じ性質のものである。それは常識が社会の有機的な関係と結び付き、それに相応する有機的な知識であることに基いている。社会の有機的な関係というのは、社会のうちに均衡が保たれている状態であって、この場合個人と社会との間には適応が持続的に存在している。その均衡から習慣が生れ、それに従って常識が作られる。社会のうちに均衡が存在する限り常識は通用する、また社会は現存する均衡を維持するために人々が常識的であることを強制するのである。
常識の右の如き性質は逆に何処から常識が破られるに至るかを示しているであろう。常識は先ず日常的な知識であった。そこで常識は非日常的なものの経験によって動揺させられる。哲学が驚異に始まるといわれるのも、そのためである。ひとり哲学のみでなく、すべての精神的文化は、非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験から生れるのである。日常的な知識は習慣的な、その意味において自然的になった知識である。その常識が破られるところから特に精神的といわれる文化が出てくる。非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、経験の深化と呼び得るものである。第二に常識は閉じた社会と結び付いた知識であった。そこでまた常識は経験の拡大によって、言い換えると、自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。自己の経験する世界の拡大するに従って常識は動揺させられる。或る社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、一つの社会の常識と他の社会の常識とが矛盾するのを知るとき、自己のもっている常識に対して疑惑が生ずるようになる。第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。その均衡が破られるとき、常識もまた動揺させられる。社会が有機的時期から危機的時期に入るとき、常識では処理し得ないようなことが次々に起って来る。有機的時期とは社会において均衡の支配的な時期であり、危機的時期とは反対に矛盾の支配的な時期である。後の場合、個人は社会の習慣的な有機的な関係から乖離し、経験の個性化が行われ、それと共に批判的精神が現われてくるのである。しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現われるのみでなく、あらゆる場合に存在している。習慣は絶えず破られるであろう。しかし旧い習慣が破られるにしても、新しい習慣が直ちに作られる。人間は習慣なしにやってゆくことができぬ。習慣が必要であるように、常識も欠くことのできぬ重要性をもっている。
ところで有機的と危機的とは、社会における均衡と矛盾との関係を意味し、社会がもと対立するものの統一であることを示している。常識は閉じた社会のものであると私は述べたが、いかなる社会も単に閉じたものでなく、同時に開いたものである。ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異るものであって、閉じたものをいかに拡げても開いたものにはならぬといっているが、社会は元来このように対立するものの統一である。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。我々は民族的であると同時に人類的である。かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの
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