に現われる直観や意味充実作用の高昇は対象に対する我々の関心や愛の高昇に依存する結果である。「ひとは愛するもののほか知らない、知識がより深く、より完全になるべきであるならば、愛、いな激情は、より強く、より烈しく、より活発にならねばならぬ」、とゲーテも書いている。しかしかような見解は、認識を主観化し人間化してしまうことになりはしないであろうか。アウグスティヌスは彼の心理学に彼の創造説並びに啓示説と結び付いた存在論的基礎を与えている。愛と関心によって、例えばすでに単純な知覚の如き知的作用のうちに形象が現われるということは、彼に依ると、ただ出来上った対象のうちに侵入する認識主観の活動であるのでなく、却って同時に対象そのものがそれに応じて答えること、対象が自己を与えること、自己を顕わにすること、即ち対象の自己啓示である。それはいわば愛の問に対して世界が答えることであり、これによって世界は自己を開示してその完全な存在と価値に達するのである。かくてアウグスティヌスにとって世界の「自然的」認識は、その対象的制約の側から見れば、ひとつの啓示の性格をもっている。この「自然的啓示」は究極においては永遠の愛であるところの神のひとつの啓示である。すべての主観的な作用が愛によって土台付けられているのみでなく、認識された物そのものもこの愛に応える自己啓示において初めてその完全な存在と価値に達するのである。そこでアウグスティヌスは、例えば植物は人間から見られ、見られることにおいてその特殊的な、自己に閉じ込められた存在からいわば救済されるという傾向性をもっていると語っている。マルブランシュは関心や注意を「魂の自然的な祈り」と呼んだ。この場合にも祈りという言葉は、主観的な人間精神の活動の意味のみでなく、関心と愛をもって見られた対象の自己開示のうちに存する答を一緒に体験することを含んでいる。そこでパスカルは、「愛と理性とは同じものである」、といっている。
 しかるにかように知識の倫理が問題になるのは、そこに求められた知識が、マックス・シェーレルの区別に従えば、救済の知識ないし教養の知識であって、仕事の知識でないためであるといわれるであろう。シェーレルは、コントが人知は神学的段階から形而上学的段階へ、更に実証的段階へと順次に進歩してきたと考えたのに反対し、宗教的・神学的認識(救済の知識)、形而上学的・哲学的認識(教養の知識)、実証的・科学的認識(仕事の知識)は、知識の発達の三つの歴史的段階でなく、人間精神そのものの本質と共に与えられた持続的な三つの精神の態度であり、認識の形態であって、そのいかなる一つも、他に代置されることも他を代表することもできないと主張した。それらは認識する精神の三つの違った作用、違った目的、違った人間の型に属するのである。
 まことに近代科学は知識を世俗化した。そしてそれに伴って哲学も世俗化された。そしてそれと共に知識の倫理はもはや問題でなくなったように見える。しかし知識の世俗化によって知識の倫理がなくなったのでない。その世俗化そのものが実は近代の初めにおける知識人の情熱であり、彼等の知識の倫理であったのである。しかるにすべてが世俗化してしまった後には、世俗化がひとつの倫理であったことが忘れられ、それと共に知識の倫理そのものも問題にされなくなったのである。科学はどこまでも客観的に認識してゆく。そのためには自己の主観的な観念や意図に束縛されないことが必要であり、そこに倫理的態度がなければならぬ。すべての研究者は良心的であることを要求されており、そこに知識の倫理がある。知識を求める者には真理に対する熾烈な愛がなければならぬ。この愛は人生の幸福についての高い見方を必要とする。真理は個人にとって必ずしも有利なものでなく、人間を不幸にする場合さえ多いからである。そこでまた人間はしばしば真埋を蔽い隠そうとする。それ故に真理を知ろうとする者は真実でなければならぬ。そして哲学的認識における如く、単に客観的に捉えることのできぬもの、主体の自己開示に俟たねばならぬもの、かようなものの認識は特に倫理的でなければならぬであろう。
 認識のあらゆる場合において我々はつねに良心的であることを要求されている。良心は人間の客観に対する関係でなく、主体に対する関係である。倫理は主体の主体に対する関係のうちにある。良心的でなければならぬということは知識の倫理にほかならない。カントは良心を人間における内的法廷の意識と称した。しかるに良心と呼ばれる根源的な、知的で道徳的な素質は、その仕事が人間の自己自身に対する仕事であるにも拘らず、彼はそれを或る他の人間の命令で行うものと見るように彼の理性によって強要されている。なぜならその仕事は法廷のそれであるが、良心によって訴えられている者と裁判官とが同一の人間であるということは法廷の観念に適しないからである。しかしいかにして一人の人間のうちにかように二重の人格を考え得るであろうか。カントは現象と本体とを区別する彼の認識論に相応して、そのような裁判官を経験的人間に対する本体的人間と考えた。良心は単に内在的なものではない、それは人間の主体的超越性を現わしている。しかし単に内に超越的なものを考えることは神秘主義に終るか、我々を偶像崇拝者にすることである。真に内に超越することは外に真に超越的なものを認めることでなければならぬ。良心的であるということは単に内なる呼び掛けに応えることでなく、外なる呼び掛けに応えることである。外なる呼び掛けが内なる呼び掛けであり、内なる呼び掛けが外なる呼び掛けであるところに、良心がある。物が表現的に我に臨むということは、主観的な我を否定すべく我に迫ることである。知るということも、もと物的表現の世界から喚《よ》び起されることである。主観的な我を否定して物をそのものとして認めるところに、対象の要求に従うところに、認識がある。知るということは認めるということである。知ることが認めることであるのは物が元来表現的なものであるためである。対象がリップスのいわゆる「対象の要求」をもって我に臨むというのは、それが表現的なものであるからである。そして我々が良心的であることによって物は我々に対して真に表現的に顕われるのである。
 もとより認識にとっては単に良心的であるということだけでは足りないであろう。知識を得るにはその能力がなければならず、従って有能性が問題である。有能性は技術的意味のものである。知識を得るには方法的でなければならず、方法なしには学問はない。学問とは方法的に得られる知識である。方法は一方主観的なものである。対象は方法によって規定される。しかし方法はまた対象から規定される。方法は対象に適した方法でなければならないからである。即ち方法は主観的・客観的なものであり、かようなものとして技術的である。有能性とは方法における練達、優秀な技術を意味し、これを欠いては知識の倫理は抽象的なものに止まるであろう。しかし方法或いは技術は悪用され、真理に達するために用いらるべきものが却って真理を歪曲するために用いられることができる。そこに欠けているのは良心である。認識もあらゆる表現作用の如く形成的であり、技術的である。技術は物をしてその本質を発揮させるものである。植物は見られることによっていわば救済されるとアウグスティヌスのいった如く、物は認識という形成作用によってその真の存在と価値に達するのである。しかし更に、真理は表現的なものとして我々を行為に動かし、自己と世界とを実践的に変化させるものでなければならぬ。表現的なものから喚《よ》び起された認識は、それが我々の実践的な形成作用を通じて存在のうちに実現されることによって真に表現的になるのである。真理に従って行動するということが我々の倫理である。真理は知識の問題であると同時にかような倫理の問題であるところに、知識と倫理との究極の結合があるのである。
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   第二章 行為の問題

      一 道徳的行為

 行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。行為という場合、普通にその道徳性が問題にされ、行為はおよそ道徳的行為の意味に理解され、その際、道徳は知識とか芸術とかと異るものと考えられている。しかし既に述べた如く、知識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ、知識の主体も操作的なものとして行為的と見られることができ、また知識についても知識の倫理がある。更に芸術の如きも、単に享受の立場からでなく、制作の立場から捉えられねばならぬ、芸術の主体も制作的なものとして行為的と見られることができ、芸術についても制作の倫理が要求されるであろう。かように物を行為の立場において見るということは、物を歴史的世界において見ることである。歴史的世界は行為の世界である。従ってドロイセンのいう如く、歴史的世界は道徳的世界である。もとより知識、芸術、道徳の間には区別がある。知識の根本問題は真理であり、道徳のそれは善であり、芸術のそれは美であるといわれている。しかしそれらを差別においてと同時に統一において把握することが重要である。
 道徳的といわれる行為に固有なものは何であろうか。これが明かになって初めて、いかなる意味において他の種類の行為も道徳的と考えられるかが明かになるのである、認識は主体の客体に対する関係である、それは主体による客体の把捉である。科学においては人間も物と見られ、自然として取扱われる。認識の問題は我と物或いは自然との関係であるといわれる。しかるに道徳は主体の主体に対する行為的聯関のうちにあるのである。それは人と人との関係、人間的関係を指している。カントが、他の人を物としてでなく、人格として取扱え、ということを道徳的命令として掲げたのは、道徳の根本現象を明かにしたものということができる。道徳の根本概念は我と物でなく、我と汝である。
 道徳はすべて我と汝の関係の認められるところに成立する。そのことは人間を単に他との間柄においてのみ考えて、自己自身として考えないということではない。我々が人格であるのは、自己が自己に対する関係においてであって、他に対する関係においてではないといわれるであろう。しかし人間がこのように自己自身において道徳的存在であるということも、自己が自己に対して我と汝の関係に立ち得るということに基いている。私は私自身に対して汝と呼び掛ける。「汝為すべし」という道徳的命令は、私が私自身に対して汝と呼び掛けるのであり、そこに道徳の自律性がある。道徳を単に自他の間柄においてのみ考えるのでは、道徳の自律性は考えられないであろう。道徳的に自覚的であるということは、自己が自己に、自己を汝として対することである。カントが良心を、主体の主体に対する関係として、法廷に譬え、自己のうちに訴えられたものとその裁判官であるものとを考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。良心的とは道徳的に自覚的であるということである。過去の私、未来の私、否、現在の私も、私はこれを汝としてこれに対することができる。かように自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、これを汝としてこれに対し得るということは、人間存在の超越性に基いている。超越なしには道徳は存しない。自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は人格であり、かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。汝が真に汝として我に対するためには我が真に我でなければならぬ。
 ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、それは同時に逆に、かように呼び掛けるものがむしろ汝であり、自己が汝に呼び掛けるのでなくて、汝から自己が呼び掛けられることである。良心を法廷に譬えたカントにおいても、訴えられたものが自己であって、裁判官は「他の人間」であった。自覚は超越によって可能になるのであり、それは単に自己が自己を意識するということでなく、却って自己が自己
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