的基準があるのである。そして知識は有用である故に真理であるのでなく、逆に、真理である故に有用なのである、といわねばならぬであろう。更に既に論じたように、経験にしても単に経験的なものでなく、経験的なものと先験的なものとの統一であり、単に内在的なものでなく、内在的なものと超越的なものとの統一である。純粋に内在的な立場においては行為というものも考えられない、行為は二重の超越によって可能になるということを、我々は繰返し述べてきた。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的であるというところに、人間的生はあるのである。しかるに生をただ内在的に見る実用主義にとっては、知識の有用性は単に心理的ないし生物学的意味のものとなり、従って相対主義に陥ってしまう。尤《もっと》も行為の立場においては、知識は何等か実用的なものと考えられねばならぬであろう。実用性を全く無視することは、知識を単に観想の立場において見ることである。真理は生産的なものでなければならぬ。けれども生産的ということは、歴史的に生産的という意味に解されねばならぬ。歴史は単に内在的なものでなく、単に心理的なものではない。実用主義に欠けているのは歴史的見方である。実用主義は今日、行為を環境における行為として捉えることによって次第に歴史的見方に近づいてきたが、なお真に歴史の意味を把握しないで止まっている。
しかしながら実用主義が知識を行為に関係付け、真理は発明されると考えたということには、正しいものがある。これまで、普通に、真理は既に存在するものとの一致と定義されている、しかるにジェームズは、それを未だ存在しないものとの関係において定義するのである。真理は、彼に依ると、既に存在する或るものを模写するのでなく、存在するであろうものを告知するのであり、将に存在せんとするものに対して我々の行為を準備するのである。哲学は真理が後方を見ることを欲するという自然的性向をもっている。しかるにジェームズにとっては真理は前方を見るのである。言い換えると、他の多くの説は真理をば、それを初めて定式化する人間の特定の行為に先立つ或るものと見ている。あたかもアメリカがコロンブスを待っていた如く、真理はそれを見出す人を待っていたかのように考えられている。真理は以前から存在するものであって、我々の仕事はただその隠されていたのを発見[#「発見」に傍点]するというだけである。しかるに実用主義にとっては、あたかも我々が自然の力を利用するために機械を創造する如く、我々は実在を利用するために真理を発明[#「発明」に傍点]するのである。新しい真理は発見でなくて発明であるというのが、真理に関する実用主義の根本的見解である。この見解には確かに正当なものが含まれている。しかしながら真理を発明と見ることは、それを真に歴史的に見ることでなければならぬ。発明といっても固より単に主観的なものであることができぬ。すべての発明は発見の要素をもっており、またすべての発見は発明の要素をもっている。即ち認識は主観的・客観的なものであり、かようなものとして右にいったように形成である。
六 知識の倫理
我々は既にしばしば知識と行為との関係について述べてきた。知識と行為とは単に外面的に結び付くのでなく、内面的に結び付いている。認識する主観そのものが行為的である。この見方は我々を知識の倫理の問題に連れてゆくであろう。
知識の倫理の問題は認識の根柢には意志があるという主張から導かれることができるであろう。この主張は認識は判断であるという説につながっている。それに依ると、本来の意味において知識であるのは表象でなく、判断である。判断のみが本来の意味において真もしくは偽といわれるのである。判断は表象でなく表象の結合である。しかし判断は表象の結合であるというのみでなく、判断には肯定と否定或いは承認と否認があり、このものが判断の特徴をなしている。ブレンターノに依ると、判断は表象の結合と同じでなく、表象にとっては認識とか誤謬とかは内的に無関係であって、判断に固有な承認もしくは否認に関して認識もしくは誤謬は存在するのである。尤《もっと》もアリストテレスが考えた如く、真偽は本来は判断についてのみ語られるが、類比的には表象についても語られるとすれば、表象と判断との区別は、表象がそれ自身としてつねに単純に真であるに反して、判断は誤謬に陥り得るというところに認められるであろう。従って虚偽ないし誤謬の問題は知識の根本問題であり、いかにして誤謬は存在するかの問題が認識論にとって試金石であるとさえいうことができる。デカルトに依ると、誤謬は二つの原因の協同から、即ち知性と同時に意志が働くことから生ずる。知性のみによって観念を捉え、この概念について判断を下すとすれば、そこに誤謬は見出されない。意志の能力は或ることを為しもしくは為さぬことができるということ、或ることを肯定しもしくは否定することができるということにある。それは知性によって我々に供せられたものを肯定しもしくは否定するとき我々が何等外的な力によって決定されていないと考えて行動するという事実に存している。そして誤謬は、意志の及ぶところが悟性よりも広く、私が意志を悟性の範囲内に拘束しないで、私の理解しないものにまで拡げることから生ずるのである。かようにして判断に固有なものが肯定と否定、承認と否認にあるとすれば、認識は意志に関わり、そこに誤謬の根源もあるということになる。ベルクマンは、判断における肯定と否定を、主語と述語の間の単に表象された関係をば判断に化するところの、批評的態度と考えた。そこから彼は、判断を単なる理論的態度と見ないで、実践的性質を帯び、意欲的能力の共存する精神の発現と見なければならぬという結論に達している。ヴィンデルバントに依ると、真理はもと、言語的には文章において表現され、論理的には判断と称せられる表象の結合にのみ関わっている。しかるに判断は心理的過程として極めて特色ある構造のものであり、そこでは我々の心の全体が、その理論的機能並びに実践的機能が、最も判明に、最も完全に現われる。判断するというのは、単に表象を結合することでなく、この結合を妥当なもの或いは真として主張することであり、他方否定判断においては、この結合を偽として拒否することである。かようにして判断のうちには種々の内容を一定の関係において思惟する知的契機のみでなく、この関係を肯定もしくは否定する意志的契機が含まれている。意志決定なしには判断は成立せず、従って意志は認識に対して責任があることになる。認識の根柢には「真理への意志」がなければならぬと主張されるのである。
もしかくの如くであるとすれば、認識にもその倫理がなければならぬということは明かである。それは認識論において主知主義をとるか主意主義をとるかということとは差当り無関係である。主知主義のデカルトにおいても、我々が誤謬に陥るのは我々が意志を悟性の明晰判明に理解するもの以外に拡げて判断を下すことから生ずると考えられるのであるから、我々の意志を悟性の範囲内に拘束するということが知識の倫理として要求される筈である。かように意志を制限することが知識の倫理であると考えるところに認識論上の主知主義の特色が認められるであろう。知識の倫理の問題はまた認識の主体が単に表象的・思惟的なものでなく全体の人間であると主張する立場とも差当り無関係である。認識が思惟の作用に属することは争われないにしても、思惟は現実において人間の他のもろもろの心的活動と結び付いて存在することが明かであるとすれば、思惟が完全に働き得るためには、他のもろもろの心的括動が一定の状態におかれることが必要である。それは主知主義者の考える如く他のもろもろの心的活動がすべて鎮静に帰せられねばならぬということに限られない。或る一定の心的活動は抑止されねばならぬにしても、他の一定の心的活動はむしろ活発にされねばならぬと考えることもできる。かようにして我々の心のうちに一定の秩序の生ずることが認識にとって必要であり、徳とはまさにかくの如き心のうちにおける秩序を意味している。また客観主義の立場において、認識することは対象に純粋に身を委ねることであると考えても、主観のかような態度は決して単に投遣りの態度でないことはもちろん、単に受動的な態度でもなく、道徳的な心の準備を必要とするのである。更にヴィンデルバントのいう如く、本来の認識である判断には知的契機と共に意志的契機が含まれるとすれば、意志の一定の状態ないし態度が認識のために要求される筈である。いわゆる真理への意志は知識の倫理の問題でなければならぬ。
いま古代及び中世の哲学を振り返って見ると、近世哲学におけるのとは異り、知識の倫理について極めて熱心に説かれているのが見出されるのである。しかるに近世におけるいわゆる認識論の特色は、知識の問題からその倫理の問題を抽象しているところにあるといい得るであろう。ソクラテスは克己と愛とを真の知識を得るための道徳的条件と考えた。かような愛の思想はプラトンにおいて発展され、彼の形而上学的認識の説と深く結び付けられている。プラトンに依ると、哲学者は愛によって、生成消滅の世界に執着する人間の自然知から永遠な存在即ちイデアの世界についての真知へ高められる。そこには「魂の翼の運動」がなければならず、「魂の転向」がなければならぬ。この転向は単に知的な意味のものでなく、全体の人格に関わるものである。またアリストテレスにとっては、知識はまさに「知性的徳」として人間の生活の最高の形態であり、この徳に至るためには段階的に「倫理的徳」即ち魂の非理性的な部分に対する理性的部分の支配と秩序付けが前提されるのである。中世のキリスト教的哲学が、最高の認識は神の認識であるとする立場において、知識の倫理を重んじたことはいうまでもない。認識の道徳的条件が考えられ、真の認識に達するためには一定の徳が必要とされ、禁欲等の道徳的行為が勧められた。神の認識そのものが直ちに道徳的意味をもっていたのである。かようにして古代及び中世の哲学者たちは、認識の道徳的制約について絶えず語っている。
その際最もしばしば愛と認識との関係が問題にされた。そして主知主義的なギリシア哲学では愛は根本において認識に依存的な機能であったのに反し、キリスト教では認識に対する愛の優位が説かれた。この差異は、前者においては、愛は真の存在に対する非存在的存在の、自己自身は愛することのないイデアに対する人間の、希求を意味したのに対し、後者においては、愛は根本においてより高いものがより低いものに、神が人間に降りてくること、身を卑しめることを意味したところから理解されるであろう。愛の優位の思想はアウグスティヌスによって心理学と認識論のうちに展開された。すべての知的作用及びそれに属する形象並びに意味内容は、最も単純な感性知覚から最も複雑な表象や思惟の構成物に至るまで、単に外的対象及びそれに由来する感官刺戟に結び付けられているのでなく、そのほかに、関心をもつという作用及びこれに規定された注意作用に、そして究極は愛憎の作用に本質的に必然的に結び付けられている。この作用は、アウグスティヌスにとって、既にあらかじめ意識に与えられた感覚内容、知覚内容等に単に附け加わってくるに過ぎぬものではない。或るものへの関心、或るものに対する愛は最も根源的な作用であり、一般に我々の精神が可能なる対象を把捉するあらゆる他の作用を土台付ける作用である。かようにして先ず、或るものについて関心をもつことがなければ、そのもののいかなる感覚も、表象も存在することができぬ。次に客観的に知覚され得る対象の範囲からそれぞれの場合に事実上何が我々の知覚に入ってくるかの選択は、その対象に対する我々の関心、従って愛によって導かれる。即ち我々の表象や知覚の方向は我々の愛憎の方向に従うのである。更に対象が我々の意識
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