主義の立場である。歴史主義は相対主義であり、そしてすべての相対主義の如く、それは懐疑論と虚無主義に陥ると批評されている。実際、もし真理がそれぞれの時代に相対的であるとすれば、絶対的真理は存在しないことになるであろう。しかしこの場合先ず注意すべきことは、心理主義が普通に個人主義的、主観主義的であるに反して、歴史主義は何等か超個人的なもの、民族とか時代とかというものを基礎とするのがつねである。歴史の主体は個人であることができぬ、それは何等か超個人的なもの、いわゆる客観的精神の如きものでなければならぬ。客観的精神は個人的な主観的精神に対し、個人がそこから現われそのうちに立っている民族の如きものであり、「このものが各人において客観性を形作る」、とヘーゲルに従っていうこともできるであろう。かように超個人的な客観的なものを基礎とすることによって歴史主義は、相対主義であるとしても、主観主義的心理主義とは異っている。もし事実として絶対的真理はないとすれば、論理主義はそれを当為ないし規範として、即ちある[#「ある」に傍点]ものとしてでなくあるべき[#「あるべき」に傍点]ものとして考えることになるであろう。歴史主義はかような当為の思想を主観主義であるとして、これに反対するという意味においてまた客観主義である。「ある[#「ある」に傍点]ことなくして単にあるべき[#「あるべき」に傍点]ものは何等真理性を有しない」、とヘーゲルはいっている。歴史主義は歴史において最も客観的なものを見るのであるから、それが知識の歴史的制約を考えることは単なる相対主義とは区別されねばならぬ。それは相対主義を含むが、相対主義に還元されてしまうのではない。その立場は我々のすべての知識が相対的であることを承認するけれども、それは絶対的真理がないという意味においてでなく、我々の知識のこの真理への接近の諸限界が歴史的に制約されているという意味においてであるといわれるであろう。かようにしてマルクス主義に依ると、絶対的真理は無条件に存在するが、我々の認識は歴史的社会的に制約されているから一度にそれに到達することができない故に相対的真理であり、しかし絶対的真理は「もろもろの相対的真理の総計」にほかならず、科学の発展におけるおのおのの段階はかような全体に新しい一粒を附け加えるのである。人類はその歴史的発展の全体において、この発展のそれぞれの段階において発見された相対的真理の総和として、絶対的真理に到達する。「ただ総体の人間のみが自然を認識する、ただ総体の人間のみが人間的なものを生活する」、とゲーテもいった。ヘーゲルも絶対的真理を全体的真理と考えた。真理は全体的なもの、具体的なものであり、それは一度に自己のすべてを現わすのでなく、却って歴史において、その発展の過程の全体において初めて剰すところなく自己を現わすのである。かようにして一般に歴史主義は、発展の概念を導き入れることによって、一方知識の相対性を承認すると共に、他方絶対的真理を保証しようとしている。その際更に歴史主義は、諸時代の知識の間に一定の聯関、発展的聯関が存在すると見るであろう。この点で、それはまた懐疑論が知識の相対性をばらばらに考えるのとは異っている。ヘーゲルは知識の発展のうちに論理的聯関を認め、一つの時代の真理は一面的であり、従って抽象的であり、その限り非真理であるために否定され、それに対立するものが現われるが、このものも前者に単に否定的に対立する限り一面的で抽象的であり、やがてその否定の否定としてそれらの真理契機を自己のうちに高めて綜合する一層具体的な真理が現われるというように、弁証法の論理に従って発展すると考えた。かくて相対的真理は部分的真理として全体的真理の体系のうちにおいて意味を与えられることになるであろう。
知識の相対性と絶対性の問題は歴史のうちにおいて捉えられねばならぬ。しかしかように考えるにしても、その歴史とはいかなるものであるかが問題であろう。もし歴史が単に客観的なものであるとすれば、人類が何時かわからない時において達し得ると想像される全体的真理は絶対的なものであり得るにしても、我々が現に把握する知識が絶対的意味をもつということは不可能であろう。また歴史の発展が純粋に内在的で連続的なものであるとしたならば、それぞれの時代の真理が絶対的意味をもつということは不可能でなければならぬ。しかるに絶対的意味をもたないものは真理とはいわれない。我々の捉え得るものが絶対的意味をもつのでなければ、我々が真理を探求するということには絶対的意味がなく、我々はただいつか後の時代に達せられるかも知れない絶対的真理のために道具となるに過ぎず、真理の探求も我々にとって人格的価値をもつことなく、その場合かような真理に従って行為することにも絶対的意味がないことになるであろう。客観的に見てゆくと相対的であるのほかないように見える知識の絶対性が示されるためには、主体的な見方が必要である。事実としても、知識の絶対性が問題になるのは主体的な立場においてであり、主体的な知識に関してである。客観的な知識に関しては、相対的であるのはむしろ当然のこととされ、それを率直に認めることが学者にふさわしい態度であるとされている。自己の説を絶対的と主張する科学者は疑いの眼をもって見られるであろう。しかるに哲学の如き、客観的に見ると最も多く異る思想が存在するものについて却って知識の絶対性が問題にされるのである。そのことは知識の絶対性が主体的に捉えられねばならぬことを示している。哲学は行為の立場における主体的知識である。主体的に見てゆくということは、歴史の外部から歴史を単に主観的に見るということではない、却って歴史はその本質において主体的に見られねばならないものである。科学の如き客観的な知識の探求も歴史的人間の行為としてはかように見られねばならず、それによってその探求に絶対的意味が認められる。客観的に見てゆくと相対的であることを免れないにしても、行為の立場に立てば、その時その状況において絶対的意味をもっているのである。行為の立場においては、永遠の将来が、その将来において初めて現われる絶対的真理が問題であるのでなく、まさに現在が、この現在の問題を解決し得る知識が絶対的な問題である。行為が必要とするのは抽象的に絶対的な真理でなく、その行為的瞬間において絶対的な真理である。真に絶対的なものとは抽象的に永遠なもの、無時間的なものではない。しかし瞬間といっても、普通に考えられる時間の点の如きものでなく、むしろ永遠の原子であり、時間と永遠との統一である。既に述べたように、行為は現在から起るが、この現在は過去から現在、現在から未来と表象される時間の現在でなく、却って過去現在未来がそこに同時存在的にあると考えられる現在であり、永遠の今である。一切のものはこの現在から生じ、この現在においてある。真に歴史的なものとは単に歴史的なものでなく、歴史的であると同時に超歴史的なものである。「おのおのの時代は直接に神に属する、そしてその価値は決してそれから生れ出るものに基くのでなく、その存在そのもののうちに、それ自身の自己のうちにある」、とランケはいった。それぞれの時代はそれぞれ絶対に独立なものとして非連続的であり、非連続的であると同時に連続的である。世界は多であって一である。それは歴史的にどこまでも動いてゆくと同時にどこまでも止まっている、動即静、静即動といわれるのである。一切のものは世界から作られ、世界を表現し、世界においてある。それらは多であって同時に一なるものとして表現的である。一切のものはそれぞれ独立でありながら互に他を指示している。表現的なものは多様の統一であり、一即多、多即一ということを原理としている。表現的なものは超越的意味をもっている。人間もまた世界の外にあるものでなく、世界の一物として世界においてある。認識というものも歴史的世界における歴史的物としての人間の表現作用の一つにほかならない。我々の行為は自己から起ると共に世界から起るのである。我々が自然を見る眼は自然が我々を見る眼である。それは表現的世界から喚《よ》び起される表現作用に属している。かようにして我々の認識は絶対性をもつことができるのである。もとより我々の知識に相対的なところがあることは争われない、しかし相対と抽象的に対立して考えられる絶対は真の絶対でなく、真の絶対とは却って相対と絶対との統一である。世界は歴史的創造的世界として、ヘーゲルの考えた如く、先験的に論理的に構成され得るものではない。我々の認識作用も歴史的創造的であり、既にある真理をただ発見するというのでなく、あたかも機械が我々の発明に属する如く、発明的なものである。
ところで知識と行為との関係を強調するものに実用主義(プラグマティズム)がある。実用主義は経験論の発展であるが、経験を行為的なものと見るところに特色がある。かくて実用主義は真理を動的過程的に把握するのである。それは発生的な見方に立っている。主知主義者が真理を本質的に固定的なもの静的なものと考えるに反して、実用主義者は先験的な原理、閉鎖された体系、いわゆる絶対者を認めない。「真理は真と成る、もろもろの出来事によって真となされる。それの真理性は常にひとつの出来事であり、ひとつの過程である、即ちそれが自己を実証してゆく過程、それの実証・過程である」、とジェームズはいっている。我々の観念はそれが喚び起す行為や他の観念を通じて我々を経験の他の部分へ導いてゆく。この結合と移動が一点から一点へと進行し、どこまでも調和と一致が存する場合、その観念は証明を得ることになる。かくの如く実証された指導が真埋・過程の原型である。我々は我々が言葉においてもっている知識の実際的効果を試さなければならぬ。真理というのはかような実際的効果、紙幣に対する正金の値である。或る観念もしくは理論の真理性はその論理的帰結によってでなく、その実践的帰結によって判定される。知識は解決であるよりもむしろ一層多くの仕事に対するプログラムであり、特に現存の存在が変化され得るような道への指示である。そこで理論は道具となる。実用主義は強張った理論を嫋《たおや》かにして仕事に着かせる方法である。或る思想の意味を展開しようと思えば、我々はただそれがいかなる行為を作り出すに適しているかを決定しさえすればよい、その行為が我々にとってその思想のもっている唯一の意味である。実用主義は方法として、特殊な結論でなく、却って一定の態度である、第一の事物、原理、範疇、必然性から眼を背けて、最後の事物、結実、帰結、事実へ眼を向けるところの態度である。かくて実用主義の足場は経験である。それは経験が一の全体として自己包括的で他の何物にも凭《よ》り懸らないと考える。知るものも知られるものも共に経験の部分にほかならぬ。我々の経験の部分である観念は、我々を助けて我々の経験の他の部分と満足な関係に入らせる限り、真となる。我々が真とする思想は、まさに我々の経験の一契機である故に、経験の中で働くことができ、我々はその思想の指導によって経験の中に入り、このものと有利な結合をなし得るのである。そこで実用主義は現代の多くの「生の哲学」と共通の原理に立っている。生の哲学の根本原理は生を生そのものから理解することであると、ディルタイはいったが、あらゆる超越的なものを斥けて純粋に内在的な立場に止まろうとするのが生の哲学の一般的傾向である。実用主義にとっては認識もまた我々の生の機能の一つであり、その真理性はそれが我々の生にとって有用であるということにある。「真理は、普通に想像されるように、善から区別された、そしてそれと対等な範疇でなく、善の一種である」、とジェームズはいっている。しかるにかように超越的なものを排して生の内在的な立場に立つ実用主義は、真理を人生に対する有用性と考えることによって、知識そのものに関しては却ってその内在的基準を認めないことになるであろう。知識にはその論理性の如き内在
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