を超えるということである。自己が自己を超えることによって、自己が自己を意識するということも可能になる。自覚において現われるのは単なる我でなくむしろ汝であり、汝によって我も喚《よ》び起されるのである。「我々は反射によって、即ち我々自身への強要された還帰によって、目覚める。しかるに抵抗なくして還帰なく、客観なくして反省は考えられない」、とシェリングはいった。私はひとりでに反省的自覚的になるというよりも、客観の抵抗によって自己自身に還るのである。否、客観からでなく、却って他の主体即ち汝から、我は自己自身に還るのである。汝の命令によって我は喚び起されるのである。そこに道徳的行為の客観性がある。我が良心的であればあるほど、汝の我に対する呼び掛けはいよいよ迫ってくる。もとより単に外から強制されるのであっては道徳ではない。外から喚び起されることが内から喚び起されることであり、内から喚び起されることが外から喚び起されることであるところに、道徳がある。カントは、良心を主観的強制と見、これに対して実践理性の法則に基く義務を客観的強制と見たが、道徳を単に良心の問題と考えては単なる主観主義に陥ることになり、そこには何か、義務というが如き客観的命令的なものがなければならぬ。しかしカントの道徳法の概念には歴史性が欠けている。それは時と処と人とに関わりのない一般的法則として捉えられている、従ってそれは形式的であるに過ぎぬ。しかるに行為はつねに歴史的である、特定の状況のもとにおける特定の主体に依る行為があるのみであって、抽象的一般的な行為というものは考えられない。道徳は主体の主体に対する行為的聯関としてつねに歴史的である。
 道徳的行為の歴史性は、道徳的要求における真理の性質から明かにされ得るであろう。真理は単に知識にのみ関するものでなく、道徳にも真理がなければならぬ。それのみでなく、フィードレルのいった如く、芸術においても真理がその中心問題であり、芸術的真理における実質のみが芸術作品の永続的価値を決定するのであつて、あらゆる他の性質は副次的であり、一時的な効果を基礎付けるに過ぎぬと考えることもできるであろう。そしてフィードレルは芸術的真理の問題を観照の立場でなく芸術的生産の立場から考えたが、道徳的真理はもとより行為の立場から考えられねばならぬ。道徳における真理は客体の真理、自然の真理でなく、主体の真理、人間そのものの真理である。自然の真理はそれ自体においてあるものの真理であり、人間から認識されると否とに拘らずそれ自身において存在する[#「存在する」に傍点]と考えることができるとしても、道徳の真理は歴史的真理であり、主体と主体との間に生起する[#「生起する」に傍点]ものである。自体においてあるものの真理に関わる主観は、カントの意識一般の如く、抽象的一般的な、非歴史的なものと考え得るにしても、歴史的な道徳的真理はつねに現実の具体的な人間に関わるのである。それは人と人との間に起るものであり、従って起らないこともあり得る、そのとき真理の代りに虚偽が現われるのである。道徳的真理は起るものであり、従って起らないこともあり得る故に、それは命令或いは当為(ゾルレン)の形をとるのである。自然の真理は命令でなく必然(ミュッセン)である、しかし世界について[#「ついて」に傍点]の真理も世界における[#「おける」に傍点]真理の問題と見られるとき我々に対して命令の意味をもってくる。道徳的真理が当為であるということは、それが単なる形式であるとか単なる理想であるとかということでなく、むしろ逆である。それは歴史的真理として現実的なものであり、単なる意味というが如きものでなく、却って意味と存在との統一である。道徳的真理は人間の真理であるといっても、「人間」というものの一般的本質が問題であるのではない。それは私がそれに従って他の者に対する態度を作るべき人間一般の真の像というが如きものでもない。道徳においては私自身の真理が問われているのである。その真理は主体的な真理、言い換えると、真実、人間のまことである。人間のまこととは何であろうか。我が汝から喚《よ》び起され、汝の呼び掛けに応えるということである。かく応えることにおいて我のまことは顕わになり、真理は起る、即ちその真理は歴史的である。それが道徳の存在の真相である。呼び掛けはつねに具体的なものであり、これに応える行為もつねに具体的である。汝から喚び起されるためには、我は純粋で、まことでなければならぬ。また我を喚び起すためには、汝は純粋で、まことでなければならぬ。本質的に歴史的な行為的な道徳的真理は、具体的には、単に我のまことにあるのでなく、また単に汝のまことにあるのでもなく、我と汝との間にあるのである。
 道徳的真理即ち真実が信頼を基礎付ける。信頼は、元来、主体と主体との間に成立つ関係である。自己の呼び掛けに対して他が必ず応えるであろうと信頼する、その際他のまことが信ぜられており、また応える側においても自己に呼び掛ける者のまことが信ぜられている、即ち信頼は人と人との間に真理が起るということを土台としている。信頼は単に他が変らぬこと、彼の人格の同一性を信ずるというが如きことではない。カントは正直という徳を、不正直であることは自己矛盾に陥るとして説明したが、すべて道徳はかように形式論理をもって説明し得るものでない。道徳的真理は我と汝という全く独立なもの、対立するものの統一の上に成立つのであるが、道徳はすべてかくの如く弁証法的なものである。ところで他の呼び掛けに応えることは責任をとるということであり、それに応えないことは無責任ということである。責任をもつというのは他の信頼に報いることであり、無責任であるというのは他の信頼を裏切ることである。信頼と同じく責任の観念は道徳的行為の基礎である。もし信頼がただ他を信頼するのみで同時に自己を信頼することでないとすれば、それは自己のまことを失うことになり、無責任なことになる。責任もまた単に自己の他に対する責任でなく、自己の自己に対する責任でなければならぬ。他に対して責任を負うことが同時に自己に対して責任を負うことであり、自己に対して責任を負うことが同時に他に対して責任を負うことであるというところに、人間のまことがあるのである。そして人格の観念と責任の観念とは本質的に結び付いている。人格とは責任の主体である。責任の主体は自由でなければならず、自由なものであって責任の主体となり得るのである。「汝為すべし」と呼び掛けられているのを知る人間は、まさにそれによってまた自己が自由なものとして、自己の道徳的自由に向って呼び掛けられているのを知るのである。自由と責任とは不可分のものである。
 ところで他が自己に呼び掛けるというのは他が表現的なものであるからである。汝として我に対するものは表現的なものでなければならぬ。汝は表現的なものとして我の行為を喚《よ》び起すのである。人間の真理と虚偽が、ほんととうそとして、特に言葉に関して理解されるのも、そのためである。我々の行為は表現的なものから喚び起されるのであり、かようなものとしてそれ自身表現的である。主体と主体とは表現的なものとして相対し、その行為的聯関は表現的聯関である。しばしば論じた如く、主体とは単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。そして表現というのは、主観的なものと客観的なものとが、内と外とが一つであることを意味している。表現において、内部が外部に表現されるといわれる。この内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである。技術的に作られたものは表現的であるといわれるが、その場合、もし我々の意欲が単に主観的なもの、肆意《しい》的なものであるとしたならば、自然の客観的な法則がこれに向って反逆し、これと一つに結び付いて物が作られるということはないであろう。その意味で技術における人間の意欲は客観的意味をもったものでなければならぬ。ひとは技術において自己の主観的な意欲を制し、これを客観的なものにすることを学ぶのであって、技術が道徳的教育的意味をもっているのも、そのためである。我々の意欲が或る客観的なものであることによって技術は成立するのであり、人間の技術が自然の技術を継続するということも、そのためにいわれることである。それだからといって、技術は単に客観的なものであるのでなく、やはり主観的なものと客観的なものとの統一である。単に主観的なものを否定することによって我々は真に主体的になるのであり、人間のまことが現われるのである。このものは超越的意味をもっている。表現において表現されるものは単に心理的なもの、内在的なものでなく、超越的なものでなければならぬ、イデー的なものでなければならぬ。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的なものであるというところに、人間の存在がある。しかしながらそのことは表現作用が単に理性(ロゴス)から起るということを意味するのではない。「デーモンの協力なしには芸術作品はない」とジイドがいった如く、我々の表現作用の根柢にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。「世界におけるいかなる偉大なことも激情なしには成就されなかった」、と理性主義者ヘーゲルでさえいっている。デモーニッシュなものとは無限性を帯びた感性的なものである。人間の動物的衝動という言葉は、比喩的に語られているのでなければ、不正確に語られているに過ぎぬ。我々は動物的衝動をもっているのでなく、ただ人間的衝動をもっているのであり、このものは外的機能においていかに動物的衝動と類似しているにしても、性格的にはそれとは別のものである。人間的衝動はデモーニッシュであり、また人格化されている。人間が超越的であるのは単に理性においてでなく、却ってその全存在においてである。プロメテウスの神話が象徴している如く、技術というものもしばしばデモーニッシュな衝動に基いている。世界の根柢には無限の闇、無限の衝動がある。もとよりパトス的なものは無限定なものであり、しかるに表現作用は形成作用として限定作用である、そこにパトス的なものの中からイデーが生れるということがなければならぬ。パトスが衝動的であるというのも、それ自身は無限定なものでありながら、すでにそれ自身のうちに限定への、イデーへの、形への無限の希求を含むためでなければならぬ。表現におけるイデーは抽象概念の如きものでなく、パトスの中から生れたものであり、従って抽象的に理性的なものでなく、むしろ感情的・理性的なものである。形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史的なもの、歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。
 人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客
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