れてゐるが、それを形而上學の基礎附けであると見るハイデッゲルの如き見方も存在するのである。私どもが哲學の勉強を始めた頃には認識論が全盛であつたが、今日では反對に形而上學が流行して認識論はあまり顧みられず、論理といつても殆ど辯證法一點張りになつてゐる。これにも或る必然性があるであらうが、かやうな時代にむしろ認識論の問題から出直してみることが却つて新しい哲學の生れてくる契機になるかも知れない。哲學者には、時代の中にあつてこれを超え得る心のゆとり、精神の自由が欲しいものである。
 論理は具體的には特に科學の論理、或ひは認識論的意味における科學の方法論である。ここに哲學の一つの重要な領域が存在することは先にいつた通りである。もちろん哲學の問題は、論理の問題にしても、また實在の問題にしても、單に科學のみでなく、あらゆる方面に横たはつてゐる。各人は自分の立つてゐる所から問題を捉へて哲學に向はねばならぬことは既に述べておいた。從來哲學において問題とされてゐるものが何であるかを知ることも必要ではあるが、現代には現代の問題があるであらう。この轉換期において哲學は生きるか死ぬるかの重大な危機に立つてゐるの
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