れてはならない。正、反、合とか、否定の否定とかいつた形式を覺えることでなく、物を辯證法的に分析することを學ぶことが問題である、辯證法の形式にはめて物を考へるといふのでなく、物をほんとに掴むと辯證法になるといふのでなければならぬ。論理は物のうちにあるのでなければならぬ。
論理學は認識論につらなつてゐる、むしろ兩者は一つのものである。その認識論といふものの問題が如何なるものであるかを知るために初めに讀んでみるものとしては、先にも擧げたリッケルトの『認識の對象』などが好いであらう。或ひは趣向をかへて、ロックの『人間悟性論』とかヒュームの『人生論』とかから根氣よく始めるのも好いであらう。ドイツあたりでは認識論の入門とか概論とか稱するものがいろいろ出てゐるやうであるが、この種の書物はだいたい受驗準備書としてできてゐるものが多く、讀んで面白くなく、得るところも少いであらう。
哲學の主要問題はよく認識論と形而上學とに區分されるが、實際には兩者は密接に結び附いてゐる。知識の問題は實在の問題を含み、實在の問題は知識の問題を含んでゐる。カントの『純粹理性批判』は普通に認識論の問題を取扱つたものと考へら
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