、私はそれにあまり重きをおかぬといふことである。哲學上の用語の意味を知らうといふのなら、哲學辭典がある。またどのやうな説があり、どのやうな傾向があるかを知るには、哲學史に依らねばならぬ。もちろん私は決して哲學概論といふものを輕蔑するのではない。私がいひたいのはただ、順序として先づ概論の名の附くものを讀まねばならぬかの如く考へる形式的な考へ方にとらはれないといふことである。哲學に入る道はもつと自由なものと考へて好い。

       二

 私自身の經驗を話すと、高等學校の頃、哲學に關心をもち始めたとき、わが國にはまだ哲學概論と稱する種類の書物は殆ど見當らなかつた。私が哲學に引き入れられたのは西田幾多郎先生の『善の研究』によつてであつた。そして今も私はこの本を最上の入門書の一つであると思つてゐる。その頃の高等學校には、文科にも哲學概論の講義はなく、あつたのは心理と論理とだけであつた。また高等學校の時には、後に哲學を專攻する者も、心理と論理とを勉強しておくものだといふのが、私ども一般の考へでもあつた。そしてその頃は世界戰爭の影響でドイツ語の本は全く手に入らなかつたので、私はジェームズの『心
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