の豐かさはまた廣さともなるであらう。哲學に入る者が學ばねばならぬのは、物をはつきり考へること、廣く考へることである。廣く見、廣く考へることは、獨斷や偏見とは反對のものであるべき哲學の基本的な條件である。深さに至つては、學び得るといふものではない。深さといふものは、結局、人間の偉さであると思ふ。それ以外深さうに見えるものはペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬ。深さといふものは學問を媒介とする學問以上の人間修業によつておのづから出てくるものである。單なるペダントリ乃至センチメンタリズムに過ぎぬいはゆる深さに迷はされることなく、それを突き切つてゆくところに哲學的精神がある。明晰な書物はつねに有益であるが、深さうに見える書物は學問にとつて有害なことが多い。眞の深さについていへば、哲學することは眞の人間になることである。そしてすべての人間がめいめい獨自のものであるやうに、深さもそれぞれ獨自のものである。一般的な深さといふものを私は信じない。もし何かそのやうなものがあるとすれば、それは明晰に直觀され、明晰に思考され得るものでなければならぬ。
 ところで思考については論理學の存在が考へられるであ
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