を學ぶことである。もちろん直觀にもそれ自身の明晰性と嚴密性がある。しかし直觀の明晰性や嚴密性も、論理的に明晰に嚴密に思考することを知らない者には達せられないであらうし、少くとも哲學的に重要なものとはならないであらう。明晰に思考することを學ばうとする者は先づ初めにどのやうな本を讀めばよいであらうか。さしあたり私はリッケルトの『認識の對象』の如きを勸めたい。この本は私どもが哲學の勉強を始めた時分には殆ど誰もが入門書として讀んだものである。今はどれほど讀まれてゐるか知らないが、私は今もやはりこれを一つの適當な入門書であると考へてゐる。

       九

 すでに私は明晰に考へることを學ばねばならぬと述べた。考へるといふことは、元來、明晰に考へることである。もとより哲學には深さも大切である。しかし濁つてゐるために底が見えないに過ぎぬといつた場合もあるので、深さうに見えるもの必ずしも深いとは限らず、むしろ反對であることが多い。どこまでも澄んでゐて、しかも底の知れないものが、眞に深いのである。眞の深さにはつねに豐かさがある。盡きることなく湧いて出てくる豐かさのないものは眞に深いとはいへない。こ
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