、その限界を考へてみたりすることではない。かくの如きは眞の懷疑でなくて、感傷といふものである。懷疑と感傷とを區別しなければならぬ。感傷が物の外にあつて眺めてゐるのに反し、眞の懷疑はどこまでも深く物の中に入つてゆくのである。これは學問においても人生においてもさうである。容易に科學の限界を口にする者はまた無雜作に何等かの哲學を絶對化するものである。感傷は獨斷に陷り易い。哲學はむしろ懷疑から出立するのである。そのやうな懷疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法敍説』を、或ひはまた懷疑論者と稱せられるヒュームの『人生論』を、或ひは更にモンテーニュの『エセー(隨想録)』を讀んでみるのも、有益であらう。

       八

 多くの人々は人生の問題から哲學に來るであらう。まことに人生の謎は哲學の最も深い根源である。哲學は究極において人生觀、世界觀を求めるものである。ただその人生觀或ひは世界觀は哲學においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。もちろん直觀を輕蔑すべきではない。そして忘れてならないのは、直觀も訓練によつて育てられるものであるといふこと、その訓練
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