ころで既に哲學概論についていつたことが科學概論についてもいはれるであらう。つまり概論の名に拘泥して、先づ概論書に取り附いてこれを物にしなければならぬといふやうに形式的に考へる必要はないのである。殊に科學の場合、哲學者の科學論よりも科學者のそれから教へられることが多いであらう。例へばディルタイの精神科學論がすぐれてゐるのは、この哲學者が實證的歴史的研究においても第一流の人物であつたことに依るのである。また科學においては特殊研究が重要であることを忘れてはならぬ。元來、哲學が科學に接觸しようとするのは、物に行かうとする哲學の根本的要求に基づいてゐる。哲學者は物に觸れることを避くべきでなく、恐るべきではない。物に行かうとする哲學は絶えず物に觸れて研究してゐる科學を重んじなければならぬ。
七
つねに源泉から汲むことが大切である。源泉から汲まうとするのが哲學的精神であるといひ得るであらう。物に觸れるといふことも源泉から汲むためである。本を讀むにも第一流の哲學者の書いたものを讀むといふことは、思想をその源泉から汲むためである。哲學の研究者が科學者のものを見る場合においても、やはり
前へ
次へ
全29ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング