第一流の科學者の著述に向ふことが肝要である。
かやうなものとして哲學を勉強しようとする人に勸めたい本は、私の乏しい知識の範圍でも、かなり多い。その一二の例を擧げると、例へばポアンカレの『科學と方法』その他である。マッハの如きも、マルクス主義流行の時代にはマッハ主義といつて輕蔑されたものであるが、見直さるべきものであると思ふ。少し方面を變へると、例へばクロード・ベルナールの『實驗醫學序説』である。更に社會科學の方面になると、マックス・ウェーベルの『科學論論集』の如きが先づ擧げられるであらうし、もつと方面を變へると、科學者とはいはれないにしてもゲーテの自然研究に關する諸論文の如きは勸めたいものである。
かやうに科學といつても範圍は廣いし、その上各々の科學は次第に專門化してゆく傾向をもつてゐるとすれば、哲學の研究が科學と結び附かねばならぬことは分るにしても、人間は萬能でない限り、どうしたらよいのかと問はれるであらう。その場合私はやはり自分に立脚すべきことをいひたい。一通り廣く見ることは必要であるが、何か一つの學科を選んで深く研究し、できるなら、專門家の程度に達するやうにしたいものである。
前へ
次へ
全29ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング