は論理的訓練にも増して嚴しいものであるといふことである。哲學そのものが直觀であるかどうかは意見の別れるところであるが、いづれにしても直觀を輕んずるのは愚かなことであり、直觀を育てることは努力に値することである。
 人生の問題から直接に哲學に入らうとする人々に先づ勸めたいのはフランスのモラリストの研究である。パスカル、モンテーニュなど、日本語で讀めるものも追々多くなつてゐる。私にとつて特にパスカルが啓示的であつた。彼等の人生論には獨特の實證性がある。科學の實證性とは異つてゐるが、また相通ずるものがある。この實證性に目を留めねばならぬ。それらの書物はやさしく讀めるからといつて、簡單に讀み捨ててはならない。難かしい言葉を使ふことが哲學であるかのやうに考へてゐる者があるとすれば、笑ふべきである。それらの書物は立ち停つて考へようとする人に多くのことを考へさせるであらう。多くのことを考へさせる本が善い本であり、これは用語の難易には關係しないことである。モンテーニュ、パスカルなどから哲學の本筋に來てデカルトに行くもよく、或ひはスピノザの『エティカ(倫理學)』に行くもよく、或ひはまたマキアヴェリの『君主論』などに行つてみるのも面白いであらう。
 考へてみると、私どもが哲學の勉強を始めてからこの二十年間に、著述飜譯を併せて日本における哲學書も次第に殖えてきた。廣く多くの本を讀むべきか、深く一册の本を讀むべきかといふ讀書の方法論の問題が、哲學を學ばうとする者にも現實に生じてゐる。兩者は共に必要であるが、いづれを先にするかといふ問題が實際にあるとすれば、私は先づ一册の本にかじりついてそれをものにするやうにといひたい。その一册はもちろんそれに値するものでなければならぬ。その點で、カントの『純粹理性批判』といふやうな古典は別にしても、新刊書よりも十年なり十五年なり生命を保つてゐるものを取るべきである。新しいものを見ることも大切ではあるが、先づそれから始めると、遂に一册の本を深く讀む習慣を作らないでしまふやうな危險があるといふのが、今日の讀書人のおかれてゐる環境である。人生について深く考へようとする者に東洋の古典を讀むことが大切であるのは云ふまでもなからう。
 私は哲學を勉強しようとする者にも直觀を育てることが必要であると述べた。しかし學問として哲學を學ぶことは思考すること、明晰に思考すること
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