哲學はどう學んでゆくか
三木清
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、459−9]
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哲學はどう學んでゆくかといふ問は、私のしばしば出會ふ問である。今またここに同じ題が私に與へられた。然るにこの問に答へることは容易ではないのである。これがもし數學や自然科學の場合であるなら、どういふものから入り、どういふ本を、どういふ順序で勉強してゆくべきかを示すことは、或ひはそんなに困難ではないかも知れない。それが哲學においては殆ど不可能に近いところに、哲學の特色があるともいへるであらう。哲學は何であるかの定義さへ、立場によつて異つてゐる。立場の異るに從つて、入口も異る筈である。しかも哲學的知識には、端初が同時に終末であるといふやうなところがあるのである。それにしてもどこかに手懸りがなければ、およそ研究を始めることも不可能であるとすれば、その手懸りが何とか與へられなければならぬ。これはどこに求むべきであるか。立場の相違は別にして、およそ哲學といふものを掴んでゆく最初の手懸りは、どこに、どういふ風に探してゆくべきか。質問がそこにあるとして、私の乏しい經驗に基づいて、少し述べてみたいと思ふ。
一
いつも先づきかれるのは、哲學概論は何を讀めば好いかといふことである。何でも好いから一册だけ讀んでみ給へ、といつも私は答へるのである。といふ意味は、概論といふ名前に拘泥してはならぬといふことである。哲學概論と稱するもの、必ずしも哲學の勉強の最初の手引になるものではない。概論といつても哲學の場合、著者自身の立場が出てをり、著者自身の哲學への入門であつたり、著者自身の哲學の總括であつたりすることが多いのである。そのうへ概論といふもの、必ずしもやさしいとは限らない。世間には哲學概論と名の附く書物を幾册も買ひ込んで、それに頭を惱ましてゐる人があるやうであるが、愚かなことではないかと思ふ。哲學においては、概論書から入ることを必ずしも必要としないし、またそれが必ずしも最善の道でもないのである。初めに概論が讀みたいといふのなら、何でも一册でたくさんだといひたい。何でもといふのは
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